カタロニア讃歌   ジョージ オーウェル (著)、 都築 忠七 (訳)
                      岩波文庫;岩波書店 (1992/5/18)


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現代史の謎を解き未来社会への扉を開けるとば口の書, 2015/7/11

ジョージ・オーウェルは、1936年の年末、ファシストと闘うためスペインにやってきました。彼が、そこで経験したものは、明るく気の良い兵士たち、バルセロナの町に溢れる革命的熱気、そして過酷な戦場の環境、負傷入院、そして多様な政治的流派の共同と反目などでした。そんな中で、オーウェルのなかに兆した違和感は、モスクワのコミンテルンからと思われる頑なな方針押しつけでした。その下で、多くの人々が時にトロキストなどと刻印を押されて逮捕され投獄され何人もが殺されました。POUM(マルクス主義統一労働者党)民兵組織で彼の上官だったコップ少佐も無実のままに捕まり、様々な救出行動も功を奏しませんでした。やがて彼は妻とともにフランスへと国境を越えたのでした。

彼の感じた上記違和感は、今になってみれば、大きな覇権をもって世界に君臨せんとするスターリンの個人的野望、すなわちスターリン主義によるものであることが、ディミトロフ日記をはじめとする資料が公開され明らかになっています。人民戦線が発展しつつあったフランス、スペインにおいて政権入りがみえてきた両国共産党にコミンテルンを通じて己に都合の良い行動を押し付け、それらの結果が、その違和感としてスペイン戦線にも現れたのでした。それらが、両国をはじめとする各国人民のファシズムに対する闘い、民主主義を守り発展させる闘いにどれほどのマイナス影響を及ぼしたかは計り知れないものがあります。

こうしたスターリン主義についての詳細を全面的、具体的に明らかにする作業は、未だ緒に就いたばかりです。それらが明かされることは、歴史の謎を解き明かすだけでなく、行き詰まりを見せている資本主義をどう打開するか、つまり未来社会に関する人類史的課題ではないでしょうか。

参考までに
あらすじを記します。

第一章
1936年12月下旬 バルセロナのレーニン兵舎で会ったイタリア人民兵のこと。記憶に強く残った兵士。アナキストが、実質的にカタロニアを支配しており革命もなお高揚期にあった。やがて私はPOUM(マルクス主義統一労働者党)の民兵組織の一員としてカタロニアを出てアラゴンの高地へと向かった。

第二章
バルナストロからシエタモ、アルクビエーレへ。サラゴーサに相対する最前線のうしろにあたるのだが、戦線は膠着状態で、時たま頭上を弾丸が飛んで行くが、それ以上のさしたる激闘はなかった。

第三章
アラゴン戦線に1〜5月までいたが、3月末までほとんど何も起こらなかった。当時の民兵組織は平等をうたい将校が兵卒を「同志」と呼んでいた。それは烏合の衆ともなりやすいのだが、民兵を戦線に維持する力にもなっていて脱走兵は極めて少なかった。軍需品は不足していたが、冬場の薪の確保も大変なことだった。

第四章
時々、ファシストの飛行機が来たりドンパチがあっても、また歩哨に忙しいことはあっても大きな戦闘はなく過ぎ、2月中頃、ウェスカ包囲網に加わるため移動した。

第五章
6週間の間に1回だけ戦闘があった。そこでは、虱がわき、物はすべて不足していた。私も手を毒にやられ切開するハメになった。春になり病院から戻ると、前線は更に前進した。ファシストを挟んで向こう側にはアナーキストの部隊がいた。攻防はすすまないままであった。

第六章
私は、特別志願兵15名の中に加わりファシストの砦の攻撃に参加した。古いライフル銃と手榴弾が主な武器であった。鉄条網を切ったり、泥水の排水溝に横たわったりしてすすみ、敵兵と接近戦となり負傷者を出した。最終的には退却で終わったが、作戦は成功したとのことであった。戦利品の望遠鏡を途中で手放すこととなったのは残念なことであった。

第七章
暑くなった頃、前線に115日いた後、休暇に入ることとなった。酷い環境の戦場を経験したが、それと結びついて、この間、私の考えは、社会主義の無階級平等の理念とある程度の実践(それは無階級社会の小宇宙といってよいほどだったが)に捉えられていた。4月25日、次の部隊と交替し、翌日にはバルセロナに戻った。

第八章
バルセロナの革命的雰囲気と人々の風采は大きく変化し、勞働者の都市ではなくなっていた。人民軍は、差別的給与と位階制をもつものとされて、民衆は戦争への関心をなくし、格差が広がっていた。ファシストとの闘いより、コミュニストとアナーキストの闘いをはるかに強く意識していた。近いうちに何かが起こりそうだとの噂が流れ5月1日の示威行進などが予定されたが、何事も起こらなかった。

第九章
5月3日に、アサルトス(突撃警備隊)が電話局に乗り付け攻撃を仕掛けアナーキストたちが来て衝突が始まりPOUMの建物も狙われた。いろいろな組織が闘っていた。食糧は不足していた。5日(水)頃から情勢が変化しはじめ、アサルトスが降伏したという情報が伝わり、金曜日にはバレンシアからの政府部隊が到着し、戦闘は終わり共和国の旗が街中に溢れた。POUMはファシスト部隊だと紙上で決めつけら、周りには猜疑心と適意が溢れた。この後、僕は、コミュニストの部隊には参加できないが、しかし、労働者階級の側に立って銃をとることになるだろう。

第十章
僕は前線のウエスカに戻った。スペインの前途は暗く、民主主義は遠のき労働者階級の独裁の夢は去り、ファシストの独裁の可能性が予測された。ファシスト軍に対峙していた最中、僕は、突然衝撃を感じ、首を撃ち抜かれた。奇跡的に命拾いし、いくつかの街の病院を経てレリダに送られ、しばらくそこにいた後、タラゴーナの病院に落ち着き診察を受けた。医者は、弾が約1ミリメートル急所を外れた、と言った。僕の声は、2ヶ月後に回復した。

第十一章
バルセロナの最後の数週間、ここには、疑惑、恐怖、不安、隠された憎悪の雰囲気が漂っていた。検閲が行われ、スパイがいるといわれ、多くの人たちが刑務所に送られた。僕はPOUMの経営する郊外の療養所にいた。除隊許可証をもらうため、チョットした旅行の後、医者の証明を手に入れた。バルセロナに戻り、ホテル・コンティネンタルで妻に会ったのだが、彼女は、ここを出て隠れるように言う。POUMが弾圧され非合法化され、知人を含め逮捕者が多発しているという。妻と別れその地を離れるため出発した。

第十二章
バルセロナでお尋ね者になって危ないのは夜で、ホテル泊などもってのほか、野宿しなければならない。しかし、昼はほぼ正常に暮らせる。多くの人々が時にトロキストと刻印を押されて逮捕され投獄され何人もが殺された。POUMで上官だったコップ少佐も無実のままに捕まり、様々な救出行動も功を奏さなかった。妻と僕は、やがて国境を越えた。

補論一
政治的側面を補論に記す。僕は「ファシストと闘うため」POUM民兵組織に参加した。スペインでは、民主主義がファシズムに対して起ちあがった。やがて、フランコが政府転覆を企て、国民はそれに對抗して起ちあがった。アナーキストを含め労働組合や政治的諸流派が闘い人民戦線が結成された。コミンテルン、モスクワの力も入ってきた。この地における当時の主要政党は、PSUC(カタルニア統一社会党、共産党の支配下にあった)、POUM(マルクス主義統一労働者党)、CNT(全国勞働連盟)=FAI(イベリア・アナーキスト連盟)の三つであった。コミュニストとアナーキストの対立、POUMと共産党の戦術上の対立が生じた。僕は、コミュニストに賛成するところもあったが、大きな点で賛成できないところがあった。

補論二
バルセロナの戦闘とその後には、多くの組織が関わったが、その全貌はつかみきれない。しかし、僕の経験したところや各種報道により、ある程度のことはいうことができる。この特論では、それらの複雑な諸相をできるだけ具体的に記述している。

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