赤い夕陽の満州にて―「昭和」への旅  高橋 健男 (著) 新風舎

                                                 満州談話室へ

満州への思索の旅:満州理解のための良い本が、また一冊増えた
, 2006/7/2

作者は、この本において、満蒙開拓、残留孤児、逃避行や引き揚げ、シベリア抑留や731部隊はじめ軍隊の話など、これからの社会を私たちが平和ななかで安心して生きてゆくため知っておく必要のあることを、満州訪問を通して行ったひとつのスタディとして書き付けたとのこと。作者は、戦後生まれの教育者。その故郷新潟ゆかりの開拓団の地を中心に昨年初夏、慰霊団とともに思索の旅を行いました。国より早くからずっと残留孤児の帰国実現に貢献してきた長野県阿智村の山本慈昭さん、新潟県満州開拓民殉難者慰霊祭代表世話人の長田末作さんのお仕事なども紹介されています。

「私たちが、ほんとうに良いことと思って行った開拓が、あとから気がついたら、現地の人たちにとってとんでもないことだった」という長田さんの言葉を作者は一再ならず引いておられますが、そのようなことが先に分からない、ということの恐ろしさを思わずにはおれませんでした。満州のことをたくさん勉強しておられる方には、ご存じのことがたくさん書かれていて退屈かも知れませんが、知識としてでなく、作者と一緒に、当時のことを思いつつ考えるような読み方なら、厚いので時間はかかりますが、得るところ多いこと請け合いです。


目次

第1部 満蒙開拓の歴史と実際
 満蒙開拓移民
 国策・満蒙開拓青少年義勇軍
 満蒙開拓青少年義勇軍の実際
 逃避行と引揚げ
 中国残留日本人孤児
 当事者への理解
 シベリア抑留
第2部 満蒙開拓が残したもの
 五福堂・西火犂開拓団現地慰霊同行記
 ハルビン訪問と七三一部隊遺跡
 大陸と風物と
 もうひとつの旅


抜き書き

「はじめに」

p.3
 記事(新潟日報、2005.2.4:袴田補)はまた、長田末作・新潟県満州開拓民殉難者慰霊祭世話人代表の談話を次のように紹介する。「いいと思ってやっていたことが、中国の人を苦しめていたと戦後知った。謝罪と殉難者の慰霊をしたいと訪問を続けてきたが、一番若い入でも今年七四歳。最後の旅になると思う」と。そして同会は、「私らが直接伝えられる最後のチャンス、開拓団の実態を後世に残したい」と、関係者以外の慰霊の旅への参加呼びかけをした。私はその旅に参加した。


第1部
第1章 満蒙開拓移民

p.24
 開拓団としての渡満ではない一般の満州居住者の生活の様子をまず見ておきたい。鈴木明夫は六歳で渡満(一九三九)し、そこで六年間生活した。その生活は、「満州での日本人住宅は違っていた。ガス、水道、水洗便所に風呂、それに暖房完備の住宅であった。思い出してみても、終戦前後の日本内地よりは、少なくとも二〇年くらいは進んだものだったろう」と書く(鈴木、二〇〇四、一二〇)。察するに、満州での生活レベルはその頃の内地(=日本国内)の田舎の生活よりはるかに上であったのだろう。

p.72
・・・加害者にして被害者である自分たちの立場に言及した人もいたが、一〇人中、七、八人までが、「そうは思わない。満州の開拓地でなめた苦難、引揚げるまでのシベリア抑留(現地応召者)、生死をかけた逃避行を生き抜いた自身の線上に今日の自分がある」と誇りに思い、「国に対しても別にどうも思っていない。国策の犠牲−など考え、批判する年齢でもなかった」と括淡とした態度だった。記者にとってはその反応が意外だった。

p.73-74
 政府・拓務省は、満州事変の翌年、一九三二(昭和七)年一月、満蒙六〇〇〇人移民案を閣議にかけた。このときは一蹴されたが、ほぼ同時期に、関東軍やその助力を得た皇国農本主義者である加藤完治・国民高等学校長らは、その実現に奔走していた。関東軍は将来日本人の大量移民を予定していたし、那須皓・東大教授と橋本伝左衛門・京大教授は強硬に満蒙移民可能論と即時断行論を展開した。移民案を確実なものにするためには、土地の確保がなければならない。ここに、関東軍参謀・石原莞爾の援助によって、移民案が練り直されていったところに、満蒙開拓計画の戦略的色彩が宿命付けられることになる。

p.74
 石原莞爾の仲介で加藤完治と関東軍司令部の東宮鉄男大尉が出会い、第一次武装移民計画が練り上げられた。東宮は「ソ満国境警備を兼ねた武装移民を常駐させ、食糧増産を兼ねて開拓に当たらせるべき」と、軍上層部に意見上申していた。それにより、参謀の石原莞爾、板垣征四郎両巨頭は意を強くしていた。一九三四(昭和九)年秋から翌春、東宮と加藤の指導で一七、八歳の少年一四人が東満ウスリー江沿岸に入植し、「大和村北進寮」を建てた。一九三二(昭和七)年六月一四日、石原莞爾と加藤完治は連結していた。

p.75
 一九三六(昭和一一)年の二・二六事件の中で、満蒙移民に反対だった高橋是清蔵相ら多くの重臣が暗殺された。戒厳令下成立した広田内閣は、八月二五日、七大国策一四項目を発表したが、満州移民は七大国策の一本の柱に正式にすえられた。「二〇ヵ年一〇〇万戸五〇〇万入送出計画」は帝国議会において、国策として認知された。武装移民といわれた第一次満蒙開拓計画が五・一五事件の犬養暗殺という血であがなわれたとすれば、第二次一〇〇万戸計画は二・二六事件の血で促進されたといってよいだろう(『日本全史』、一九九一、一〇六二)と言われる所以である。

第二章 国策・満蒙開拓青少年義勇軍

p.121
 たしかに貧しい農家の二・三男が多く、経済的要因を指摘することはできるが、それ以上にこれらの幼い少年たちが、自分の手で「日本の生命線」である満州を守ろうという意識を強く持っていたという。この政策が国際的にどういう意味があるのか、現地の人々にとってはどういう実態のものであるのか、などの客観的な判断材料を与えられないままに、学校の先生はじめまわりの大人に教えられるとおり、純粋でまじめな少年たちは信念を持ち、希望を持ち、誇りを持って渡満したのである。昭和一六年末現在で義勇隊満州移住協会が集計した義勇隊員の応募動機では、四七・八%が「教師の指導による」となっており、三四・二%の「本人の意志による」がこれに次いでいる。(新潟県史:袴田補)

第四章 逃避行と引揚げ

p.189
 宮尾登美子は「満州体験は自分の小説の原点」と言うが、帰還から数えて三四年の歳月を経て『朱夏』を書いた。小説を書いたのは「この体験を娘に書き残しておいてやろうと決心した」(宮尾、一九九八、六二六)からである。そして、旧満州の開拓団の人々の生活を描く。戦後六〇年を経た今日でも手記の出版は続く。それらのなかに「今だから書ける」という言葉とともに「後世に語り継ぎたい」という思いの言葉を見出す。後世の私たちに伝えられる、生死にかかわる苦難・心情を私たちは大切にしたい。

第七章 シベリア抑留

p.371
「集団主義で勤勉な反面、権力に弱い。それが日本人の民族的特性だ。何か命令されても言い争うことがまずない。私は日本人から『はい、そうですか』の返事以外聞いたことがない。そんな特性は収容所の管理や捕虜の政治教育に大変役立った」は、コワレンコ編集長の証言である。それがシベリア民主運動を動かしたコワレンコの思惑だった(同、二二一)。そこで捕虜たちは、異常な集団心理のなかで日本新聞の情報操作に乗せられていった。「民主運動に参加しなくては帰国できない」という噂が収容所内でささやかれたり、日本新聞に煽られてノルマ達成率競争やスターリンへの感謝文運動などが行なわれたりした。

第二部
第一一章 もうひとつの旅

p.524
 自分の土地を取り上げられた旧満州の人たちはどんなに口惜しかったのか?戦争といってあきらめきれたのか?日本人に"匪賊"とよばれ反日抗争・事件を展開しているときはどんな気持ちであったのか?満州国や満鉄のもとで日本人と一緒に働いた人たちは希望を抱いて仕事に当たっていたのか?日中戦争から太平洋戦争へと戦線が拡大していったとき、日本人は、そして中国入は、何を考え、何をしようとしていたのか?−−−これらについても何もわかっていなかった。そして、知り得たのは、ほんの一部である。

p.532-533
 また、こうもある。
「日本の満州経営は目ざましい努力によって、中国の民生に大いに寄与したことは認めてよいことである。要は、『歴史』という問題は冷静、客観的に見なければならないということである」と。もろもろの評価は歴史家に任せる。そして、後世に生きる私たちは、まずその事実、その体験をそのまま受け止め、あの時代のこと、あのときの世の中、軍・政府の指導者、もろもろのことを丹念に知ることが必要であろう。なぜなら、あの時代があったから、その後に生まれた私たちの今の生活があるのだから。

p.535
 童謡とは、童心より流れて童心を唄う自然詩である。童心とは、天より与えられた純真無垢なもので、全愛の心をもち、もののあわれを感ずるものである。詩とは、言葉の音楽で、読んで味わうのではなく、うたうものである。民謡とは、民族生活の情緒をつたう唯一の郷土詩であり、土の自然詩、真の国民詩である。(野口雨情による:袴田補)

p.542
・・・帰郷できた人たちは「子供だけを預け、大人の自分たちだけが帰ってきた」という後ろめたさから、他の人たちには「子供はみんな死んだ」と伝えていたのだった。それを知り、山本(”中国残留孤児の父”山本慈昭のこと:袴田補)は「いつか必ず子供たちを迎えに行く」と決心した。

p.568-570
 敵国の真っ只中で祖国の敗戦を知った私たちの問で、いろいろな意見が飛び交い、自決組と自決反対組に分かれた。国民学校の坂根先生は、自決組の先頭だった。先生の教え子や義勇隊の女たちは、坂根先生の意見に賛同した。生きていて敵から辱めを受けたり、殺されたりするより、自分の意志で命を絶とうと思ったからである。八月二〇日午前一〇時、学校へ集まってきた者は坂根先生に銃で殺していただく。校舎には石油がまかれ、最後に先生が火を放つことになっていた。(井筒紀久枝『大陸の花嫁』二〇〇四、四九より:袴田補)
 自決反対組の団長などの説得により集合した生徒はいなかったが、当該の先生は翌日一家六人で自決を決行した。そのときの様子を井筒(同、五一)は、「二人の子供の泣き声は二発の銃声で消えた。五発、六発、七発、私達は固唾を飲んで立ちすくんでいた」と記す。遺体は同じ団の人たちの手で茶毘に付された。
 この校長・教師は子供たちを死に導いている。一人この校長、この教師を責めるつもりは毛頭ない。国体・軍とともに歩む教師たちがいたと同時に、開拓団の学校にいる教師たちには軍から「子供を殺さねばならない責任」が課せられたこともこの背景にはあるからである。
 在満学校組合からの緊急通達とともに、「実は自決用の青酸カリを送ってきておる。小い包みじゃけんど、一〇〇人分と書いてあるからわが校の定員の倍以上じゃ。いざというときには生徒たちにこれを飲ませ、日本人として潔い最期を遂げさせるようにということらしい」と、教師同士が話す。しかも、「青酸カリを定員の倍もの量を送ってきたという意味には、教師とその家族も含まれていることは明らかである」と悟る(宮尾、一九九八、二三〇および二三一)。大人が、しかも教職にある者が、幼い子供たちをいとも簡単に死に導いて行き得るこういった状況を、その時代の政体、軍国主義、世論とともに理解しなければならない。

p.570
 戦争と教育については抗い切れないものがあることは確かだが、”人として"考え、"人として"決意しなければならないことがある。戦後六〇年、私たちは戦争を起こしていないし戦争に巻き込まれてもいない。その平和のぬくもりの中にあるときにこそ、"人として"の自己を見つめる必要があろう。

p.582
「・・・実際の体験者たちはどんどん鬼籍に入り、母のように、語りたくても老境のみではままならない現実もあります。これからは、私たち子や孫の世代がどう語り継いでいくかが大きな課題になってくる」(井筒、二〇〇四、二二四)と考えた娘の尽力もあり、手を加えての出版となった。それを戦後六〇年の今年私は読み、彼女の言う"大きな課題"への自分なりの対応を試みている。
 娘・新谷陽子には「母のように過酷な戦争体験をされた方々でも、それを手記として残そうという人はごく一部で、大半は、沈黙を守り、封印したまま死を迎えておられる」(同、二二一)という思いがあった。晩年になって戦争体験を手記にする人たちの多くは、「この年になったからこそ、やっと書けたのだ」と、堰を切ったように当時の思い出があふれ出すという。忘れたくても死ぬまで忘れられない、それほどの体験なのである。引揚げ後は、満州のことはすべて忘れようと心に決めたという人が多いなか、井筒は手記を残した。体験を娘や孫たちに語った。出版は彼女が八○歳のときのものである。

満州談話室へ