アカシアの街に 右遠 俊郎著 新日本出版社

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叙事的な、リアリズムの、シニカルな大連, 2005/10/2

幼少年期の日々、父の故郷岡山の六高受験失敗、喫煙や白線帽禁止を侵した退学、軍隊に召集、そして敗戦後の脱走などなど。

この作品を大連に焦点をあてて性格付ければ、叙事的大連、リアリズムの大連、ややシニカルな大連となるであろう。それは、清岡卓行「アカシアの大連」の叙情的大連、ロマンティックな大連、形而上的大連と対照をなす。大連は、満洲の中では、日本人が比較的惨劇に遭うこと少なく引き揚げに至った街だけに、そこに描かれた淡々とした時の歩みが、満洲という「国」と戦争とその中の人々の変化を印象深く読後に残したように思う。

すなわち:そこには、表だった主義主張の叫びはなく、年月日が次々と記されるでもなく(したがって、歴史の教科書臭さは全くなく)、軍隊の行進のごとく時代が淡々と描かれる。主人公が大人になり社会のことになじんでゆく過程が、戦争の大連を舞台に枯淡の筆にのって展開する。両親に関する記述は控えめで、むしろその時どきの友人や戦死する従兄たちがより躍動する。高校の同級生、広原は言う「とうとう海軍は神風特攻隊を発明した。・・・百パーセントの死を、どんな頭が計算するのか。そんな狂気に俺たちの明日は握られている。もう何をしても何もしなくてもいいんだよ」と。その時どきに主人公が誰と交わり何を考え何をしたか、それが少しのユーモアを時に交えたリアリズムで表現される。

「伊豆の踊子」に対する「天城越え」ほど意識していないであろうが、「アカシアの大連」に対する「アカシアの街に」という図式を思い浮かべた。

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