あすなろ物語 井上 靖著  新潮文庫 (1958/11)

                                                 その他の目次へ

三度目の読書でようやく「読了」ができた,  2008/7/23

思うところあって、昔、少年の頃と青年の頃と2回読んでいた本書をまた読み直した。そして、気がついたことがあった。文庫本の宣伝文には自伝的小説としばしば書かれるが、それは、この本の特徴を誤解させている。井上さんは、「人間全てあすなろ」仮説をもってこの本を書いたのである。そのことが今回ようやく読めたのである。

若いときには、この本を読んで、どうしても主人公の若い頃のエピソードに注意が行きがちである。そして、後半の筋書きが他人事というか、関心の対象からはずれてしまい、あまり身を入れて読まない傾向がある。したがって、後半、それも特に終盤近くを読み流してしまう。すると、肝心の所が記憶に残らないのである。

まず、あらすじを章の名前とともに追ってみよう。

1.「深い深い雪の中で」という最初の章では、翌檜(あすなろ)の木が、明日は檜になろうと思っているが、永久に檜になれない、という「あすなろ」の謂われが明らかにされる。あわせて、大学生が、小学生である主人公=鮎太に「克己」という言葉を示し、己に克たなければダメだ、勉強しなければダメだと教える。

2.「寒月がかかれば」の章で、鮎太は、勉学一本でなく、鉄棒やケンカで背伸びするように変わって行く。

3.「漲ろう水の面より」で、大学生になった鮎太は、全くぐうたら学生になり大学には行かず、ただ、友人たちが集う家の未亡人に思いを寄せる。

4.「春の狐火」の章で、新聞記者になった鮎太は、いろいろなタイプの翌檜と一緒に報道現場を経験して行く。老記者が田舎に引っ込んだ後に知らせてきた狐火を取材に行った鮎太は、うまくそれを写真に収められず、やはり翌檜でしかないことを思う。

5.「勝敗」で、鮎太は、社会部記者として、また従軍記者としてライバル社の記者と特ダネを競うが、要領の良さにおいてどうしても勝つことが出来ない。

6.「星の植民地」で、鮎太は戦争中に結婚し二児に恵まれ、終戦を挟んで、闇屋をはじめ、したたかに生きる庶民の中にいる。終戦近い頃、この国のどこを見ても翌檜は一握りもいなくなった。しかし、終戦の翌年になると、翌檜がどこを見ても氾濫していた。

これら六つの章のうちで、少年の頃読むと、2章までが面白くあとは流してしまう。青年の頃読むと、最後まで一応、筋を追えるが、5章、6章あたりへの関心は薄れてしまう。それに、各章に登場する個性的な女性を追っていても結構面白い。

もっとも、これは、一般に誰でもそう読むわけでなく、自分の場合だけかも知れない。

しかし、肝心なところが最終章にあることを今回読んで気がついた。すなわち、終章の冒頭、こう書かれている:「明日は何ものかになろうというあすなろたちが、日本の都市という都市から全く姿を消してしまったのは、B29の爆撃が漸く熾烈を極め出した終戦の年の冬頃からである。日本人の誰もがもう明日と言う日を信じなくなっていた」と。

終戦間際になると、戦争を遂行する日本という国の不条理を誰もが無意識のうちにでも感じていて、希望というエネルギー源を無駄に燃やし尽くしてしまい、夢をもてなくなっていた。それは、右遠俊郎が「アカシアの街に」において、その主人公の高校における同級生、広原をして「とうとう海軍は神風特攻隊を発明した。・・・百パーセントの死を、どんな頭が計算するのか。そんな狂気に俺たちの明日は握られている。もう何をしても何もしなくてもいいんだよ」と言わしめる認識と共通する。

また、終章の最後近くでは次のごとくである:「気付いてみると、あすなろは今や、オシゲと並んで歩いて行く彼の周囲にもいっぱい氾濫していた。・・・人々は誰も彼も、自分をのし上がらせるために血みどろになっていた。僅か十ヵ月足らずの間に、すっかり世の中は変っていた」と。

終戦から十ヶ月という時間は、人々をして希望を見つけ、それを燃やし夢を紡ぎ出さすに十分な時間であった。誰も彼も、多様な夢を持ち、新しい生活を作り出せることを喜んでいた。中には、抜け駆けして一攫千金をねらう輩もいたのだけれど、それに止まらず、檜になることが可能になったのであった。

終戦を挟んだこの大きなギャップを、あすなろに掛けて描いて見せたこの本は、実は、極めて現代的でもあるのかも知れない、と思ったことが、今回読んで得たもうひとつの収穫であった。

すなわち、今、日本の社会は、ひとくちには閉塞感がいっぱい、などといわれる。格差が明らかになり、突出した富者が現れた反面で、とりわけ若者の中に貧困が蔓延し、庶民のための福祉や医療は切り捨てられようとしていて、後期高齢者などという呼び方で年寄りが姥捨て山に追い込まれようとしている。教育も荒廃し、人事にまつわるコネと金が幅を利かせ、まっとうな世界でなくなっている。稀代の利益をあげている大企業においても、それをささえる労働者は非正規雇用という無権利、低賃金で技術の継承を保障できないような人たちが多くなっている。正規労働者であっても、長時間労働で過労が慢性化し、精神的ストレスも随所で強化されている。

このような実態は、あの戦争の前から終戦直前の特徴をかなり凝縮して再現しているように見えないであろうか。勿論、多くの日本人が、あの戦争の再演はごめんだと思っているし、社会経済の質的違いも大きいので、単純な再現などあり得ないことではあろう。しかし、本質的な動機として、戦争をしたいという衝動が社会のある部分にうごめいていることも確かである。まさに「戦争状況」が社会を覆う時代である。今や、「蟹工船」がベストセラーになるほど、実態を確認しようとする、特に若者が増えている。そして、嬉しいことに、その少なくない読者が、そこからの出口、連帯への道を歩もうとしていると聞く。

あの戦争を経験し、二度とふたたび戦争は御免だ、という人たちがまだかなり多くを占める今、翌檜が駆逐されようとする現代の閉塞を打ち破って、憲法九条を守ることなどを通して「戦争」を駆逐し、翌檜を氾濫させる必要がある。あの戦争直後の、夢と希望に満ちた時代を、現代の「戦争」状況を終結させることによって、現代風によみがえらせること、それがいかに重要かを、私は「あすなろ物語」を最後までしっかり読んで掴んだのである。六十歳の半ばにして、私はこの本をようやく読了した。

その他の目次へ
図書室の玄関へ
トップページへ