知の統合・・・絶学無憂に近づくために

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古代文明の時代には、科学は知の世界から分化しておらず、現代でも哲学とか博物学とかに痕跡が残っているように知は統合されていた。そして、その内容はといえば、決して幼稚でも貧弱でもなく、とても高度な水準にあった。それを確かめるには、古代ギリシャの哲学者や古代中国の賢人を頭に浮かべれば十分であろう。近代においても、いわゆる「未開人」と呼ばれた人々は、そのような知を身近に蓄えており、それはしばしばシャーマンなどと呼ばれる人々により受け継がれてきた。多くは長老であり、その集団の指導者でもあった。

しかし、考えてみると、そこには知の分化が既に現れていて、社会の分業のような、役割分担がそれ以前からおこなわれていて、そこでは統合された知を継承する役割の人が存在していたことになる。人の欲望など、前進しようとする脳の働きは、人口増加と食料の確保とを両輪のようにして、いわゆる経済活動を更新し続けさせ、そこからは自ずと分業が発生する。すなわち、食料を集める人と、それをおいしく調理する人との間には、仕事の分業と同時に知の分業もおこなわれるようになる。しかし、集団の指導を任された人の元には依然として統合された知が残される必要があった。指導者群の中における分業もおこなわれ、統合された知を蓄積し伝達し(あるいは伝達せずに隠し)次世代に継承するいわゆる学者が生まれる。古代文明の哲人は、そのような中から生まれた傑出した人々だったのであろう。

近年の環境問題を考えてみよう。古代遺跡から発掘されるトイレはしばしば水洗式である。現代でも、水上生活者の中には、そのまま水に流して終わりとする習慣が残っている。私が高校生の時、山登りの途中で、引率の先生から「川にした小便は一間流れれば飲める」と教わったことがある。一間の正否はさておくとして、それは、水流が有する大きな希釈倍率、水中に住む大小の生物の摂取・分解作用など、川の浄化作用を言ったものである。小便のうちは、それで事実上問題なかったとしても、小便ではなく大規模な工場排水だとしたら、それら浄化作用といえども対応できなくなり、水質汚濁を引き起こすことになる。これは、大気や土壌においても同様である。しかし、人間は、小便と工場排水の境界がどこにあるかを知らずに工場から排水していた時代がある。少しするとおかしいな、あぶないな、と思うことになるが、その時には、工場は経費を抑えることが不可欠になっていて、あるいは利益を伸ばすことに最大の力点をおいていて、そのまま排水を続けることになる。これが、公害のもっとも普通な経過であろう。

社会で分業が始まり、経済力が大きくなると、従来の統合されていた知が分業されたパートに局在するようになり、さらには突然目の前に現れた新事態に対応できる知が手元になかったりして、その結果、人間の対応が不適切なままでおこなわれ、公害、つまり人体への取り返しの付かない影響が及んだりする。悪影響が出てからは、企業はしばしば賠償を恐れたりしてそれを隠し続けようとする。分業と類似した形相を呈しつつ知の分化が進むのである。

ここまでは環境問題を考えたが、歴史の上では、分業とともに知の分化が必然的におこなわれ、古くはオートメーションに見られるように、技術革新を促進しそれが有効に働いて社会の発展に大きな力になることがあった。分化した知、専門化した知の集中的向上が、新たな技術を興し、新たな産業を創出することは今日でも見られることである。しかしながら、それら社会的活動をコントロールする部門にいる人間が、知を統合することを怠ったら、どういうことが起こるか。大げさに言えば、公害問題にとどまらず多くの社会問題は、そこから起こっていると言っても過言ではない。

かつて、平成3年、大学設置基準が改訂され,授業科目や卒業に必要な単位数などを弾力化し,それらを各大学の自主性にゆだねることとなった。いわゆる「教養」制度の大改革である。それにより、教養教育が大学から消えたわけではなかったが、専門教育にいっそう力点が移った傾向は否めない。それから10年、中央教育審議会が大学の教養教育のあり方に関する答申をおこなったが、この背景には、今記したとおりの教養教育の軽視に対する反省がある。知を統合する視点が大学教育から薄れゆくことに対する危機感であろう。これは、大学の教官自身が、日本の社会全体で進む競争的環境の伸展を背景として、大学における専門の細分化、論文数などに偏った評価システムなどが蔓延する中で、いろいろな深刻な問題のひとつとして知の統合に係る問題をかかえていることを示す例であると思われる。

知の統合を問題にするとき、学界全体の、社会全体の統合はさしあたり問題とならない。個人における、あるいは大きな集団を管理する小さな集団における知の統合がまず問題とされるのである。個人あるいは小集団にそれが要求されるとき、知の統合は、今更無理である、という考えが広範に存在する。たとえば、個人の持てる知識の量には限度がある、というのである。個人で、あるいは集団であっても小さな集団であれば、その対象とできる分野が限られるのは言うまでもない。問題にすべきは、分野の統合ではなく、統合の視点である。統合しようとする態度、統合を可能とする視角を個人あるいは管理集団が保有することである。

どのような視点、視角が必要で、それにより知の統合が可能なのであろうか。Ken Wilber の説を私なりに単純化し再構成して示してみよう。

まず、知の対象を構造としてどうとらえるか。数理統計手法の中に、主成分分析というものがある。化学分析ではなくデータ解析の方法である。多くの変量として計られる対象を、より小数の指標に要約してとらえようとする手法である。たとえば、人体は、身長、体重、胸囲、座高、股下長、首回り、等々の多くの特性値で計り、表すことができる。多くの人について計りこの手法で解析してみると、三つ程度の指標に要約することができて、それは、小学校などでよく計られる身長、体重、胸囲に相当する指標で、全情報の70〜80%を要約したことになる、というものである。つまり、世にある知の対象物の多くは、3,4個の特性値でその対象物のおもだった特徴を認識できることが多い、ということである。主成分分析等の示すところによると、世の中のほとんどは、3〜4次元構造を考えればおもなところの説明がつくのである。

つぎに、世の中の知の対象となることどもは、階層構造を考えると分かりやすい。人間は、おおざっぱに見ても、地球社会−国−(県とか州とかの)地方−家族−個人−器官−細胞−細胞構造物−(遺伝子をはじめ大小の)分子−・・・などと階層構造を持っている。他の生物も同様だし、時間にしても、数にしても、知にしても同様である。つまり、世に存在するシステムはほとんど階層構造としてとらえることができる。

階層構造と知の関係を考えたとき、ひとつのキーワードが浮かび上がる。「暗黙知」という概念である。暗黙知(Tacit knowing)という概念は、Michel Polanyi が打ちだしたものである。Polanyi は、ハンガリー生れの科学者で、最初は医師としてスタートし、ついで物理化学者としてエックス線回折と結晶の研究、吸着のポテンシャル理論や化学反応速度論などの研究で有名となった。(息子のジョンは1986年、ノーベル化学賞を受賞している)。その後、経済学、社会学、哲学の分野で業績を上げた。暗黙知は、哲学的業績の最後を飾るものである。

彼によると、知識には、言葉で表すことのできる知識とできない知識とがある。後者を暗黙知と呼ぶ。知識は階層構造をなすが、暗黙知はある階層の知識からその構成部分としての知識の総和を減じた時の差に相当する。換言すれば、ある階層とひとつ下の階層との差が暗黙知ということになる。言葉で表すことのできる知識や総和として加えあわされた個々の知識は、形式知と呼ばれることもある。

たとえば、オーケストラがある曲を演奏する場合、当然のこと楽譜に則って演奏するのであるが、同じ楽譜を使っても、私たちはオーケストラごとに異なる演奏を聴くことになる。つまり、演奏と楽譜との差は暗黙知である。

また、陶芸では「一焼き、二土、三細工」と言われるそうだが、それら3要素のそれぞれをマスターしても「師匠には適わない」と弟子が言ったとき、師匠と弟子の差として暗黙知が横たわっている。3要素のひとつひとつにも暗黙知が含まれることは言うまでもないであろう。

世間では、そのような暗黙知が存在しているという意識はかなり広範にあるように見えるが、暗黙知が評価されることは少ない。特に、科学の世界で暗黙知が論文にならないということ故に、暗黙知は科学ではない、とされてしまうことがある。その反面、科学の世界では、現実に御利益(ごりやく)に浴していて、しばしば暗黙知が新しい発見の源泉となる。暗黙知を豊富に持っている研究者は、新発見をする可能性が高いことになる。近代以降の産業において、分業化による大量生産、特にいわゆるベルトコンベアー式の産業形態においては、それまでの暗黙知が形式知として明確になっている必要がある。利潤をより多く上げるためには、暗黙知より形式知が有利である。

社会科学や文化の分野では、暗黙知自体もその対象となりえて、本や論文とすることができる。自然科学的分野であっても、暗黙知で特許はとれる。かくして、暗黙知の重要性は大きなものがあって、それを意識的に追求することは、知の統合にとって大変重要である。

さて、Ken Wilber が言うところを思い切って単純に要約すれば、知の統合は、その対象を階層としてとらえ、階層ごとにいくつかの比較的少数の次元の上で把握することから始まる。それを世の常であるように、ダイナミックに描くことができれば、より正確に認識できて、予測すら可能になってくる、ということのようである。ということは、知の統合が上手くゆけば、絶学無憂の境地に大幅に近づくのではなかろうか。 

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