長春駅

駅は、人が集まり出入りするところ。多くのドラマが繰り広げられます。

インターネットのサイトで、画家の小山硬さんが長春駅前の物売りのありさまを描いた絵が話題になったことがあった。数人の物売りの姿が描かれている。多分、饅頭を売る硬少年の目に映った立派な駅舎、それから連想された長春の建物、駅前を行き来する人びとなどが背景に描かれている。人が行き来する駅の一面を、戦前の満洲の追憶として印象深く描いた名作と思う。その時に、取り上げられた絵はがき(と、その時のやりとり)に誘発されて、長春の絵はがきを集めてみたら、結構、いろいろなことが見えてきた。その一端を以下に記すこととした。


左は、最近の長春駅(2005年9月)


文章中の(註X)は、本ページ末尾参照

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No.1

長春における最初の駅は、1901年、帝政ロシアにより建設された東清鉄道の寛城子駅である(註1、このページの末尾参照)。この写真右上に、日本語の説明で、寛城子駅と読める。

当初、ローカル駅であった長春(寛城子)の地位は、日露戦争の結果、一変した。

1905年のポーツマス条約により、寛城子〜旅順間の鉄道が日本に譲渡されることになり、日本はその経営のため南満州鉄道株式会社を設立した。この結果、長春はロシアの東清鉄道と日本の満鉄の終端駅となった。(註2)
No.2

満鉄長春駅は、木造の仮駅舎から始まったが、1914年に新駅舎が完成する(註1,2;この絵はがきには、1913年と記されているのは間違い)。

設計は市田(青木)菊治郎(註1)。

奉天、撫順、大連、旅順と共に五大停車場と呼ばれていた(註1)。

この絵はがきでは、玄関の前面に幔幕か何かが張り巡らされている。おびただしい馬車が集まっている。これらの馬車は、白馬が引いていたり、パレードにも使われそうな高級馬車と見受けられる。駅舎完成祝いの際の写真かも知れない。

「南満洲鐵道の最北長春停車場」と書かれている。

自動車は見当たらない。
No.3

長春駅前広場は、円形で直径は100間(註2)、中央の円形部分には植栽されており、歩道には樹木が植えられていた。

煙突は1本。向かって右側の増築部分は1階建てである。

ロータリに黒く弧を描いているのは、まるで雪道を馬車などが走った跡のようである。

この画面には、馬車は見えるが自動車は見当たらない。
No.4

長春駅前を歩む民衆。

煙突は向かって左の翼に2本、母屋の後方に1本見える。

駅舎は、中央から右は三等待合室で、右端には小荷物や鉄道便の取扱所があった。左は一,二等待合室で、待合室に隣接してホーム側に貴賓室があった。駅舎左側には貴賓者の出入りのための特別な玄関があった(註1)

向かって右の増築部分は2階建て。
No.5

駅前広場には、馬車のほかに特徴ある形のバスや乗用車が並んでいる。右に集まっている馬車は、No.2の絵はがきに見えるものと似ている。

「新京の地図」を著した栗原仲道の書くところによると「新京駅の右端の所にはツーリスト・ビューローがあり、その後方の空き地が馬車の溜り場であった。私たちの案内者は慣れた手付と呼び声で馬車を二台雇い、私たちを乗せて宿舎へと案内していった。馬車はシートも破れかけたガタ馬車で、車夫は石炭小屋から出てきたような真黒な顔をし、目ばかりギョロつかせた薄気味悪い満人であった」(註3)昭和14年3月の終わり近い日のことだったという。

No.6

No.5までの駅舎に比べると随分いろんなモノが付加されている。煙突が1本多くなっている。中央の玄関から向かって右側に大きな庇が付いている。2階建ての駅舎に続いてかまぼこ屋根がその隣の建物との間をつないでいる。馬車、自動車の形は、No.5とあまり変わらない。

この絵はがき、中央近くの空にマンガ風の手のひらのような模様が薄く見える。これは、多分、観光スタンプである。心眼を開いてよくみると、「昭和14.6.5」と読めるような気がする。もし、これが正しければ、この写真は1939年より前の風景である。

駅舎の新旧は、No.2が最も古く、3,5,4、6と続くと考えられるが、次のNo.7がNo.6より古いか、新しいかが不明である。
No.7

この絵はがきは、No.6までが註4から写したものであるのに対し、註3からのものである。

No.6より早い時期のように見える。それは、煙突が少ないからである。しかしながら、長く映っている1本の煙突、これはひょっとするとNo.6のいちばん太い煙突ではなく、3本のうち、真ん中のもののごとく見える。写真を見比べると、増えたり減っていると思われる。写真を修正することも出来るが、煙突そのものを作り替えることは、さほど面倒なことではないかも知れない。この写真の場合、煙突の手前一階部分にアーケードが差し掛けられている。ここが貴賓室入り口とすると、その辺りの改造の結果、煙突も増減したのかも知れない。乗用車が目立つ。

No.6とどちらが古く、いつごろだろう?
No.8A

新京駅のプラットフォーム。

立派な屋根には明かり取りのガラスらしきものも見える。柱の腕木やランプはいかにも趣き深いものだと思う。

このホームに該当する場所には、今でも多くの日本人が足をおろしていると思うが、この立派な屋根や柱はない。次の現代の写真、2枚と見比べてみよう。
No.8B

この写真は、1990年の長春駅プラットフォームの光景である。No.8Aとは、人の数がまず違うが、屋根や柱が全く違っている。味気なく安っぽいものになってしまっている。
No.8C

この写真は、2005年のもので、このページの冒頭に掲げた長春駅の外観写真と同じ時に撮ったものである。

ずっと現代的なホームの建て方になっている。しかし、客車の外観は、1990年当時と全く同じである。人が多いことも1990年と同じであった。
No.9

満鉄と東清鉄道は、線路の幅が異なっていた。東清鉄道は5フィートで、シベリア鉄道と同じで、相互乗り入れ可能になっている。他方、満鉄は4フィート8インチ半。列強が建設した中国の他の鐵道と同じ。

そこで、長春駅と寛城子駅との間に双方の幅の線路を1路線ずつ引き、相互の便宜を図った。左が東清線、右が満鉄線。(註1)

駅舎の煙突が1本見える。
No.10

No.9に同じ。

乗客は、ここのホームを挟んで乗り換えていた。ホーム上の建物は、乗り換え用の待合所で1908年11月に竣工した。

貨物の場合は、相互に相手の駅に乗り入れて積み替えていた。すなわち、大連から哈爾浜に向かう貨物は、満鉄の貨車で寛城子駅にまで運んで東清鉄道の貨車に積み替え、逆に、哈爾浜から大連に向かう貨物は、東清鉄道の貨車で長春駅にまで運んで満鉄の貨車に積み替えていた。

かくして、長春は、日露の人と物と情報の流れの接点となっていた(註1)。

駅舎に煙突が1本。
No.11

中国語の説明書きに「宿引」とある。どうやら駅の客引き風景ということらしい(註4)。

しかし、一番手前の小父さんが着ている半纏風のものに書かれた字を見るに「東發合」のように読める。これは、なんだろうか、どなたかご存知の方に教えていただきたいものである。

向かって左の建物が駅舎で、正面奥がホーム。右が、栗原さんの言うツーリスト・ビューローだとすると、その前に宿の案内人がいるのは理屈に合う。
No.12

もっと味気なく安っぽい屋根になってしまっている馬車。No.2の馬車に比べると、いっそうリーズナブルな料金の馬車の如し。半纏の小父さんの姿も見える。栗原さんが乗ったのはこうした馬車だったのかも知れない。

煙突は1本しか見えない。
No.13

駅舎のかまぼこ屋根の下から駅前を見ている。正面に写っている立派なビルは、栗原さんの本(註3)によると「満人旅館」と書かれた建物に相当すると考えられる。その右の樹木に囲まれた中にヤマトホテルがあるはずである。それらの間が日本橋通りである。小さく見える天守閣のような屋根は何だろうか。

左端に乗用車が見える。






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註1:西澤泰彦(1998)「図説『満洲』都市物語」、河出書房新社
註2:越澤明(2002)「満洲国の首都計画」ちくま学芸文庫、筑摩書房
註3:栗原仲道(1982)「新京の地図 長春回想記」、経済往来社
註4:李重編(2005)「偽“満洲国”明信片研究」吉林文史出版社