静かなドン   ショーロホフ(著) 横田瑞穂(訳) ロシア・ソビエト文学全集 30-32 平凡社 (1965)

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これが社会主義リアリズムか,  2012/7/1

この本のレビューは、あらすじの記載とメールの再録をもって代えることとします。メールは、読了間もなくに友人と交わしたもののうち、本書について記した部分を中心に拾い出してきたものです。

あらすじ

グリゴーリーは、ドン河中流岸のヴョーシェンスカヤ村に住むコサックの典型的中農メレホフ家の次男です。彼は隣家のステパン・アスターホフの妻アクシーニヤと激しい恋に落ちます。それを案じた父親が、彼に部落の富農コルシューノフ家の娘ナターリヤを嫁にもらってやることにします。彼はアクシーニヤと駆け落ちをし、地主貴族リストニツキイ将軍の屋敷に住み込んで働きます。アクシーニヤは女児を生みます。ナターリャは自殺を図りますが未遂に終わります。兵役で入営したグリゴーリーは、第一次大戦が始まると戦線に出て勇敢に戦い負傷して帰郷を許されます。その間に女児は死亡し、嘆き悲しんだアクシーニヤは主人の息子エヴゲーニーと関係を持ってしまいます。グリゴーリーは不貞を働いたアクシーニヤを振りきって、ナターリヤのもとに帰ります。彼が再び戦場に戻ったころから、革命の兆しが見え始めます。第一次大戦前から革命を経て国内戦が終結に向かう動乱の10年間、革命軍と反革命軍は、一進一退を繰り返しながら革命軍が支配を拡げてゆきます。コサック兵の多くは、その時々の状況に応じ、ある時は革命軍に、ある時は反革命軍に身を投じて生きて行くのですが、グリゴーリーもその中で生きることを余儀なくされ、やがて戦闘の中でいのちを落とします。ロシア革命の進展の中でグリゴーリーを中心に悲劇的な運命を辿った多くの人々の姿を克明に描いた小説です。


メール、その1

M 様

ご無沙汰してますが、お元気ですか。

最近、ショーロホフ「静かなドン」を読みました。学生時代に読み始め、その淡々とした歩みに付いて行けず挫折していたものです。

そのなかで、ショーロホフが、ロシア革命の直前から国内戦の時代を描いているわけですが、そこに登場する100人余にも上る人物を通して、ソ連の 歴史を考えさせられました。つまり、スターリンの凶暴な独裁がすでにその時代からドン川流域にも存在していたということです。それは、あの粛正体質であったり、報復と密告の横行であったり、教条主義的な政策の押しつけであったりするわけです。当時のロシアの田舎では、教育も行き届かずインテリゲンチャも極めて希にしか出くわさない、という実態です。ショーロホフが「静かなドン」を書き上げたのは国内戦時期から1930年代の後半にかけてでしたから、国内戦時代にドン地方にそれがあったのか、それとも書いた時期に現れていたことが作品に反映しているのか、不明ですが、ソ連の社会主義の弱点が濃厚に漂っているのには驚きました。今の日本とは雲泥の差です。

また、トルストイが描く農民とショーロホフのそれとの違いも際立っていました。いうまでもなくトルストイの農民は多くが上品この上ないのですが、ショーロホフのそれは、実に悲惨だったり、残酷でさえあったりするのですが、同時にユーモアに長けており、歌がとてつもなくうまいところも描かれていて、とても興味深いことでした。

では、また。


メール、その2

M 様

おはようございます!いつもこんな時間に起きておいでですか。

まず始めに、「静かなドン」は、長いのもさることながら、その上に、いわゆる社会主義リアリズムの作品というのでしょうか、自然描写も人物の行動描写も会話にしても、実に綿密に書かれていてゆっくりとした時の流れに載せて読む類の本だと感じました。もし、お読みになるようでしたら、それを考慮の上でお読みになる時期を選ぶことをおすすめします。

ショーロホフは、当然、時の権力とどう折り合っていくかを強く意識せざるを得ない状況を生きたわけです。亀山郁夫さんによりますと(「磔のロシア−スターリンと芸術家たち」岩波書店)、その時代の文化人は、ショーロホフにしても、ショスタコービッチにしても、マヤコフスキーにしても、多かれ少なかれ二枚舌を使って作品を築いていた、とのこと。ですから、ショーロホフも「スターリンの凶暴な批判弾圧を受けないように巧みに表現した」のだろうと思われます。どこがその個所かは分かるべくもないのですが、そうかもしれないと思わすところは多少感じます。先便で書いたのは、そういう感じからでした。

また、ドン地方においても、国内戦時代の赤軍、白軍ともに、旺盛に掠奪をするのですが、1945年8月9日直後に満州に入ってきたソ連軍の兵士が日本人に対しとった行動がかなり根強いところから来ているのかも知れないとも思いました。

近年、前世紀、なぜ社会主義が崩壊せねばならなかったのかを、庶民サイドの問題として考え続けています。1917年に向かう時期、ロシア人民はどんな状況におかれていたか、は、いろいろな文学やノンフィクションなどに覗うことが出来ます。レーニン「貧農に訴える」「ロシアにおける資本主義の発展」はいうまでもないのですが、19世紀後半、明治政府の派遣した米欧使節団の久米邦武は「米欧回覧実記」で、ロシアの農民が悲惨な状況にあることを見てとっていました。ロシア革命の最中に関してはトロツキー「ロシア革命史」が、ペテルブルグの人民の様子をも時々垣間見せてくれます。その後の時代に関しては、いくつかの小説で読むことができますが、バイアスもかかっているのかもしれません。批判的に読むことも必要なのでしょうね。アンドレ・ジイドの「ソヴィエト紀行」は、読みたくて読まずに来ています。高杉一郎さんの本は、かなりそのものずばりを取りあげています。思いつくままに上げただけでも、いろいろなものでそれらを考えることができるわけですが、そんなものを通してその問題を考えています。もちろん、その対極に、高度に発達した資本主義国のことを思いつつ、です。それが現代から近未来の日本においてどうすべきかと固く結びついていると思うからです。

いつか、そんなことも議論できるとよいと思います。

では。

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