「ゴミ」を捨てながら考える

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押し入れの中に眠っていた昔の書類やら本の整理をしました。その結果、本も段ボール二箱分位を捨てることにしました。ほんの一部です。

先日は、アナログ・テレビや古いオーディオ機器などを処分しました。

時々こうした作業をするのですが、処分品は、地域のゴミ収集に出したり、クリーンセンターに持ち込んだり、廃品回収業に出したりしますが、再利用できるものは、再利用してもらえるルートを考えながら出しています。

しかし、基本的には、捨てる、ということになるものが多いのです。クリーンセンターへ、あらかじめ分別して持ち込んでも、たとえば段ボールなどを、資源ゴミとして扱ってもらえず燃やせるゴミのピットへ捨てることになるなどもしばしばです。地域のゴミステーションに出した資源ゴミも、結局は燃やされることもあるのでしょうか。これは、私の住む市の場合の事例です。

私は、考えるのです。現代という時代は、大量生産、大量消費、大量廃棄で成り立っているとしばしばいわれます。いずれも、その結果、安いものをたくさん作って、どんどん捨てることによって、消費者がお金を使い、経済が活発になり、生産が進み、消費者は新しいものを買い・・・という循環が続くのです。

たとえば、大量生産によってすてきな衣装が安く作られれば、人々は我先にと買いに走り大量消費が実現します。それを続ければ、押し入れや戸棚は間もなくいっぱいになります。古いものから、まだ着れるとしても、捨てなければ新しいものを入れる場所がなくなります。これが、衣装だけでなく、雑貨でも電気器具でも、時には自動車でもそうなのです。最近は、家屋までそんな風潮があって、昔に比べ短時日に建てかえが進むようです。

そして、結局環境破壊が進んでいるのです。その最たる現象が、化石燃料の大量消費に大元を置くところの温暖化など地球規模の気候変動とそれに伴う災害の増加です。

これは、どこかおかしい。そのような経済成長により人々が幸せになるのだとしたら、最後の環境部分もしっかり手当てしなければならないはずです。それができないのは、なぜなのか。

今まで、幾度となくその疑問をたて考えてきた結果によれば(そんなに大袈裟に言うほどの結論ではないのですが)、現行の経済成長が、人々の幸せのためにあるのではなく、多分、企業が、もっとはっきり言えば資本が利益を貯め込むところに目的があるためだろう、ということです。

もしそうであれば、利益を得た段階で、目的を達したわけですから、そのあとのケアなど、つまり、環境破壊などはどうなっても良いし、そちらにお金を掛けることは利益を減らすことになるからです。そうではなく、人々の安全で快適な生活に目的があるのであれば、環境破壊が起こらないようにしなくてはならないことはあたりまえでしょう。

そうしたことを考えるとき、かつては、社会主義が対極に思い描かれ夢や希望として機能していました。しかし、1990年代初頭にソ連、東欧諸国などの社会主義国が崩壊して以来、社会主義の夢、希望がシャボン玉のようにはかなく消え去ってしまったかにみえました。

しかし、他方で、資本主義がうまくいっているかといえば、問題だらけです。とりわけ、先進国の経済はアメリカもヨーロッパも日本も貧富の格差が広がり、緊縮経済のもと冨はますます一部の富者に集まり、貧者の割合が増え続けています。それら先進国では、リーマンショックに見られるような経済不安が頻発し、それらに有効な対策を打てないでいます。それら経済・社会の運営の仕方を、新自由主義経済と呼んでイメージすることは一般化しています。

その新自由主義経済に見切りを付け、アメリカ一辺倒の国策から自国民に軸足を移して新たな路線に次々に踏み出している国が中南米で増えています。先日、新自由主義路線の継承を掲げた日系のフジモリ女史が大統領選挙に敗れたチリもそのひとつです。これらのなかには、ベネズエラのように新たな社会主義をめざすといっている国も出ています。キューバは、社会主義をめざしつつも市場経済を導入して経済を活性化しようという新たな試みを実践し始めました。中国、ベトナムとならんで、注目されるところです。

インドや東南アジアの国々も、新自由主義路線には、かつての経済危機の経験から警戒を強めつつ自主的な歩みを始めています。

20年前に時代錯誤とされて遠ざけられた社会主義の理論や理想を、今一度見直すことも含め、いろいろな選択肢を準備した上で、目の前の社会・経済をどうすべきか、多くの人が真剣に考えてみるのがよいのではないでしょうか。私も、今世紀に入った頃から、そんな気がしていろいろな機会に少しずつ考えてきました。

そして、今思っていることですが、要約していえば、21世紀前半の経済は、アメリカ基軸の経済ではなく、多極的な発展を、自国を見据えた経済を中心に実現する方向にあるのではないか、ということです。これは、自国を大切にしつつ広く世界的に友好裏にお付きあいする社会ということもできそうです。日本は、何よりも自国の国民の消費を伸ばすところから活路を見出し、原発から持続的なエネルギーに転換するなど、国民が広く潤う経済をめざすべきではないでしょうか。

そうした経済の下では、一部に冨が集積するのではなく、生み出された冨が国民の幸せのためにより多く使われ、そのための新たな基準、ルールが考えられるでしょう。環境破壊を減らすためにも、過度な大量生産、大量消費、大量廃棄は抑えられるでしょう。その実現のために何が必要かは、今から広い議論が必要でしょう。

私は、そういう場として地域のコミュニティーの復活が図られる必要があるのではないか、それは、多分、長時間労働を減らすところから生まれるのではないか、と思っています。古代ギリシャのポリスの民主政治が、現代社会によみがえる、などとイメージして頂いて良いと思います。これについては、もう少し具体化してみようと思っています。

ゴミ捨てをしながら、そんなことを考える真夏の一日でした。

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