罪人をも包み込む母なるもの

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戦争を知る世代が確実に減りつつある今、戦争の加害も被害も、事実を以て考える機会をできるかぎり持つようにすることは意義あることでないか。そのとき、被害者の立場を突き詰めて考えると同時に、加害者の立場をも突き詰めて考え、そのうえで、それらを止揚したあらたな視点を持つようになればよいのか、と論理的には考えることが出来る。そのようなことは、私なぞが考えるまでもなく先人はとうの昔から考えてくれている。

私は、青年だった頃、いくつかの小説を読むうちに、こころの隅に引っかかり、その後も何かにつけ思い起こすようになった事柄がある。罪人を扱った小説である。よく覚えている小説では、水上勉の「飢餓海峡」、松本清張のいくつかの作品、遠藤周作の「母なるもの」などである。ごくごく大雑把に言うと、水上、松本の作品からはそれを生み出す社会に目を向けさせられ、遠藤からは、人間の特性というか業、宗教など、内面的なものに目を向けされられた。

この世には、極言すれば罪人以外にいない、とは遠藤の想い。水上や松本は、この社会とその中で罪を犯さざるを得なくなった罪人という関係を描く。遠藤は、短編「母なるもの」の中で、隠れキリシタンの信仰が、長い歴史の中で、欧風から日本風に変容したことをとりあげ、次のように書いている。「昔、宣教師たちは父なる神の教えをもって波濤万里、この国にやって来たが、その父なる教えも、宣教師たちが追い払われ、教会が毀されたあと、長い歳月の間に日本のかくれたちのなかでいつか身につかぬすべてのものを棄てさりもっとも日本の宗教の本質的なものである、母への思慕に変わってしまったのだ」と。裁き罰する父なる神は日本には定着しにくかったというのである。裁き罰する父なる神に対して、他方で優しく許す母なるもの。母なるものは日本人の精神に殊に深く関わる、と遠藤はいう。

この問題の中には、罪の被害を受けた人の悲しみや苦しみの問題が含まれているのだが、それと同時に、裏表の関係で、罪人がどうすべきか、罪人に社会がどう対処するかの問題が含まれている。裏切り者や罪人にも救いはあるか?これは遠藤の追求し続けたテーマでもある。加害者をも、被害者をもそれぞれ肯定して受け止めてくれる母なるもの。私は、そんな母なるものを持ち合わす人は、ほんとうに、成熟した社会、衣食足りて礼節を知るような社会でなければ多くはいないのではないかと思う。

罪は、どんな社会においてもほとんど不可避であろう。だとすれば、人間に何が出来るか。罪を犯す結果になるような社会的土壌を出来るだけ正す努力が、まずは権力者に要求される。国民の側も、もちろんのこと、そうならないように勤めることが要求される。そのためには、規範となる法律はいうにおよばず、学校教育、社会教育、マスコミなどに期待されるところが大きい。法律や教育などのまえに、さらに経済が成熟していなければならない。男社会である現代日本、そこでそんな理想を追うとなれば、母が先頭に立つしかない、母なるものを持ち合わす人々が多数派にならなければならないだろう。

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