満洲旅行記 by TOMO
  
  (2005.9.9〜9.15)
                               備忘録「旅日誌」はこちら             

    目次(その一)
せわしさの合間に・・・序にかえて
北国の日差し
四都物語
肉まんの底の紙
ホテルのインターネット事情
満洲の故郷、内地の故郷
給水塔と広告塔
大連日本橋
「お父さん、松花江ですよ」
胡同
松花江の泥水


 目次(その二) 


せわしさの合間に・・・序にかえて

 ツアー旅行はやはり何となくせわしい。
 今度のツアーは、メンバーの平均年齢が64歳弱だったので、旅行会社に頼んでずいぶん余裕を持たせてもらった。おかげで本格的ツアーに比べると疲れも少なくて助かったのだけれど、今になって、時間が足りなかったような気がして、参加メンバーとの会話が思った程出来なく、あれも話せば良かった、これも聞いてみたかった、と思うことばかり。
 でも、ツアーのひとこまひとこまを思い出すと、せわしさの合間に、皆さんの仕ぐさや言葉の合間に、それらの断片がほとばしり出ていることに気が付く。そうした断片は、旅から帰ってから、折にふれて思い出されたり、どうという理由もなく思いがふくらんでゆくこともある。この旅行記では、それらのいくつかを、現地で感じたことに加えて順不同でならべてみた。なお、「満洲」をはじめ、地名などに当時の呼称をそのまま使わせていただいたことをご了解いただきたく思う。
 今後、思い出したり頭の中でまとまってきたことを、その都度、追加して掲載したいと思っているので、この旅行記を、時々、思い出して訪ねてみていただけると嬉しい。

 


北国の日差し

 この旅行は本当に天候に恵まれた。雨はいっとき、ハルビンで来たけれど、そのあいだじゅう、私たちはマッサージで雨をやり過ごした。そんなわけでハルビンの曇時々雨を除けば雨には遭わず、ガイドの李さんなんぞは「私が晴男です」と自慢していた。勿論、晴女を自称する人も。
 9月はじめの中国東北地方の陽気は、今年が例年に比べどうだったのか知らないけれど、日本の9月末か10月はじめの感じだろうか。しかし、日本とは微妙な違いが漂っていた。ハルビンは、緯度ではおおむね宗谷海峡に相当し、大連が山形、瀋陽が函館、長春が旭川にあたる。北国は、太陽が斜めに差し込む分、日光は空気で屈折されて光の質が南国とは異なっている。そして、多分、大連では北国の海の冷気が漂い、その他の都市では大陸性の乾燥した空気が上乗せされているのだと思う。
 満洲談話室で、漱石の大連描写が紹介されていたのでそれを検索したら見つかった。「大連の日は日本の日よりもたしかに明るく眼の前を照らした。日は遠くに見える、けれども光は近くにある、とでも評したらよかろうと思うほど空気が透き徹って、路も樹も屋根も煉瓦も、それぞれ鮮やかに眸の中に浮き出した。」中山公園や旧日本人街を散策した時の「日」はたしかにそんな雰囲気を漂わせていた。
 大連に限らず連日のように、北国の日差しが透き徹った空気で我々を迎えてくれた。それはこの旅を演出して、最大のプレゼントであった。

 


四都物語・・・印象の比較と未来戦略

 私たちは、大連に飛行機で着いて後、ハルビンに飛び、長春、瀋陽と南下し4つの都市を訪れた。それぞれに特色を持った都市であった。表面的な観察結果からだけでひと言で言えば、大連はとても近代的な明るい都市になっているように感じられた。ハルビンは、欧風な雰囲気が最も目立つ都市であった。長春は、何といっても満洲の首都としての新京の光と翳の都市であった。瀋陽は、歴史の街、満州の中心都市として目に映った。
 いずれの都市も近年の中国経済発展の流れの中におかれている。しかし、流れのありようと速さには開きがある。一般に言われるように沿海部と内陸の差、東と西の差と言われるような違いはあって、ビルの建設ラッシュ、街角のたたずまい、民衆の服装、自動車の導入の程度などに、4都市間の違いがうかがわれ、大連が一頭地を抜いている。また、これらの都市と北京、上海との格差はいっそう大きいものがあるように思われる。全体としては、我が国の高度成長時代を思い起こさせる。そしてその向いている先は、我が国の歴史がそうであったように欧米ではないか、と思わせた。
 かつて、20年程前に韓国を訪れ、その時の印象は、「日本に追いつき、追い越せ」というように見えたものであったが、今の中国に見えるのは、「欧米に追いつこう」という姿であって、正直なところ日本は目じゃない、という匂いがあった。もちろん、日本との関係を抜きにして中国の近未来はありえないのだが、中国の指導部はそれ以上遠いところに目標を置いて経済成長の戦略を建てているようにうかがわれる。特に、ヨーロッパの多民族協働の模索に注目しているのではないか、とこれは直感だけれどどこかの都市を巡っている時に思った。そして、そのなかで、中国の歴史が持ついろいろな伝統、それは4つの都市それぞれが独自のものを持っているわけだけれど、それらと現代的な文化とをどう融合し実現してゆくのか、そこに私の関心はとどまって動かなかった。

 


肉まんの底の紙

 肉まんの底にへばりついた紙をとらずにくらいついてしまい、あわてて、肉と衣混りのコネコネの紙を口から取り出すはめになることがある。今回の旅の途中で少なくとも2回はやってしまった。肉まんは、小さなものが朝飯のビュッフェの棚に登っていたのである。
 ガイドの李さんによると、これがないと肉まんの下側、皿に付くところがビチャビチャになって美味しくなくなるのだそうだ。そうなると、子ども達はその部分を取り除いて食べるそうである。たしかに、たまに下部が水でぴしゃぴしゃになってなんとも不味い肉まんを食したことがあった、と思いだした。ひとりっ子は恵まれていて贅沢をするのかも知れないが、我々世代だと、たとい不味いと思ってもモッタイナイとも思ってしまい、取り除いて捨てることが出来ない。
 

ホテルのインターネット事情

 私は海外へも普通はパソコンを持って行く。と、当然、ホテルでインターネットや電子メールを使いたくなる。部屋の電話などからダイアル・アップでその近所のアクセス・ポイントにつなぐ時、ホテルから出るのがなかなか大変で、まずは、部屋の電話が外線につながっていないことがある。その時には、フロントに言って外線につながるモードに切り替えてもらわなければならない。その先は、通常、9を最初においてやってみる。うまくいかない時は、「9,」としたり「9,,,」としてみたりする。それらのどれかでつながればバンザイ、ということになる。が、それでもダメだと再度、フロントのお世話になるしかない。言葉が通じない時は、なかなか大変なことになる。
 今回の「中国東北の旅」では、全ホテルでインターネットがとても快適に使えた。大連、ハルビン、瀋陽が4ツ星、長春が5ツ星と格付けされるホテルだったが、瀋陽が有料だったほかはいずれも無料で接続が出来た。瀋陽が有料といっても、30分程度で数百円と何とかリーズナブルな範囲内。これは、そのシャングリラ・ホテルのチェーン独自でシステムを構築していて、それを商売にしようとしているためのようである。いずれにせよ、これらの場合、専用ケーブルを使う必要がある。デスクの引き出しに入っている場合もあるが、フロントから借りてくる場合もある。今回の旅では、このように、海外アクセスポイントにダイアル・アップで苦労して接続する必要なく手軽に使えるのにビックリした次第である。
 ちなみに、ベトナムはハノイのホテルでもシャングリラと同じシステムを使っていた。また、日本ではかなりのホテルで無線LANを客室で使えるようにするのが流行のようである。これはむろん無料である。これらは、ありがたい改善であり、サービスを本気で考えるホテルであれば時宜と理屈にかなった改善だと思う。
 

満洲の故郷、内地の故郷

 今回の旅は、メンバーの多くが故郷を訪ねる旅でもあった。満洲の記憶がない人でも、文字通りの意味で生まれ故郷であったり、親や兄弟から聞かされたイメージがあったりして懐かしいことにはかわりない。しかし、実際に行ってみると、記憶やイメージとは余りにかけ離れていてピンとこないことも多かったのである。だから、イメージが壊れるのが恐ろしくて、敢えて訪れるのをやめた場所がある、という人もいた。
 年寄りにとって、故郷というのは心の中や瞼の裏、思い出の彼方にしかない。つまり、60年も時が経つと都会はいうまでもなく、田舎であっても変貌が著しい。それが現代というものである。
 それでも、故郷には何となく記憶と重なるところがある。変貌はしても全てが変わってしまうわけではない。山の遠景などはほとんど変わらない。大連の上葭小学校はすっかり姿を変えて面影が無くとも、そこから見えた大連富士の姿は60年後でも全く変わらず眺めることが出来た、とはノーラさんのお話。ある程度大きな川は、姿形は変わっても、そこにあることは不変である。その川を見ているうちにその当時の思い出がわき出してくる。松花江の畔に朝早くから立った人は何を思ったのであろうか。
 生えている草花の種類も時を隔てても共通なものがほとんど必ずある。草原や叢林の姿も共通なことが多い。草深い神社の跡を写した写真から、当時の草原とそこに咲いた美しい草花までを瞼に描くことさえ可能である。孫呉の神社の写真を見て、旅に参加しなかったM子さんは、掲示板に次のように書いてくれた。
 「石段が残っていてよかったです。大きくなった木々にまたびっくり。昭和19年10月に孫呉に行った時は野原の中に神社が建っていました。60年以上も経つのですものね。私が孫呉にいた季節は秋から冬 春 夏(10月〜8月)といちばん好い季節を過ごしたのです。春夏は孫呉神社の周りはひざ丈ぐらいの草花が一面に咲きそろい黄色いキスゲ、紫色の実を付けた蔓草 ススキに似た細い葉、見渡す限り草原といった感じでした。雲雀をどこまでもどこまでも追いかけて雲雀の巣を探しました。雲雀は天高く飛び垂直に巣のあるところに舞い降りると聞いて姉と2人の弟と舞い降りた所にいって見ても巣はなく、孫呉の雲雀は知恵者でした。草花を取って来ては官舎の庭で姉弟とままごと遊びをしました。陶器の台所セットがあり姉弟2組に分かれてお隣さんごっごで遊びました。」
 実は、こうしたことは満洲の故郷に限らず、内地であっても同じである。満洲であっても、どこであっても故郷は、どこかの土地にではなくほとんどは記憶の奥に残される。ただ、満州での終戦が余りにもカタストロフィックであったことは、そこに暮らした多くの人々にとっての故郷の意味を特別のものに変えてしまった、と私には思われるのである。

 


給水塔と広告塔

 MIEさんのお兄さんは、長春にあった西広場小学校とその周辺のことをよく覚えておられて、近くにあった給水塔の記憶も鮮明とのこと。その形は、火星人が立っているように大きな水槽を頭に載せて立っていて、古い写真でその姿を見ても何となくおかしくて一度見たら忘れられない。ところが、近年、そこを訪れたところ、その頭が大きな広告に覆われて、給水塔ならぬ広告塔に変わっていた、と驚いたそうな。
 今回私たちの目に触れたのも、まさに広告塔、三方から見えるように大きな広告が三枚、火星人の頭を覆ってそびえ立っている。市場経済の下では、給水塔は広告塔としての役割が前面に出てしまうのである。
 ところで、この広告塔が、今も給水塔なのかどうか。それを確かめる機会はなかったけれど、ここに限らず、給水塔は、旧南新京駅前にも立っていた。こちらのものは、多くの方が引き揚げのために列車に乗り込んだ南新京駅前だけに、記憶されている方も多いのであるが、数年前になくなってしまい、今や、見ることが出来ない。長春の他にも、時々、給水塔を目にする。
 ハルビン・瀋陽間の列車に乗ると、どこまで行けどもトウモロコシ畑がつづき、山らしい姿がほとんど見えず、この地方が大平原であることがよく分かる。そこに、松花江や遼川などとそれらの支流が流れ、人々の水利に供されている。特に市街地では、飲料水など生活用に上水道を通して家々に絶えることなく水を届けなければならない。安定して届けるためには、水を、一度、高いところに上げて水圧をかけてやる必要がある。
 大連で見かけた給水塔は、山の上にあった。大連は、山坂の多い街である。最近は、超高層ビルも建ってきた。多分、山の上の給水塔は、それらの条件を考えて作られたものであろうと思われる。
 給水塔は、風物詩となることがあるけれど、広告塔になってしまうと一度に風情がなくなってしまう。市場経済とは時に味気ないものである。

 


大連日本橋

 ある雑誌に載っていた大連の日本橋の写真が満洲談話室で紹介されたことがあった。そうしたら、終戦後、その橋の上で饅頭売りをしたことがあるという方から書き込みがあって、その雑誌を早速買った、とのこと。中山広場のすばらしい写真があるということだったので私も買い求めた。その写真によると、日本橋の欄干には、たらい程もあろうかというぼんぼりが写っている。写っている人力車などから判断すると、多分、戦前に撮った写真である。
 この橋は、1908年竣工で、前田松韻さんという方の設計によるとのこと。前田さんは、福井出身で、明治37年東大建築学科を卒業。大連軍政署に籍を置いていた頃に、この日本橋の他、大連民政署(大連警察署、明治41年、現存、写真右)も設計している。卒業後4年で、これを設計したことになる。エリート技術者であるが、あのぼんぼりはなかなかユーモアがあり、大連民政署も洒落ていてそのセンスはなかなかのものである。
 今回の旅では、ローラが現地ガイドに頼んで日本橋をコースに入れてもらい、バスで通過しただけだけれどそのぼんぼりの現物を目にすることが出来た(写真左)。この橋は、現在は勝利橋という名になっている。橋を海側に渡ると、そこは旧ロシア人街で、近代ヨーロッパ風の立派な建築が今でも並んでいる。この写真では分からないのだけれどロシア人街寄りのぼんぼりだけ(と思われるが)大小二段重ねである。
 旅に出る前に覗いたインターネットサイトによると、橋の原型を保存したまま渋滞解消のために拡幅することになった、と出ていた。しかし、実際に来てみると、欄干の外にネットが張ってあって景観をコワしている。そのネットは恒常的なものか、まだ工事中なためなのか。前者であればいただけない。松田さんもご覧になれば残念がることだろう。
 
 


「お父さん、松花江ですよ」

 松花江のミニ・クルーズの最中、ふと気が付くとノーラさんが2,3枚の写真を取りだしてあなたのやぎさんに何やら説明している。ご家族の写真のようだ。で、その後、その写真を船の窓から外にかざして川面やハルビンの街並みを見せて上げている。きっと、心の中で「お父さん、松花江ですよ。見えますか?」などとつぶやいているに違いない。
 後から満洲談話室のサイトへノーラさんご自身が書き込んでおられるが、その写真に写っているのは「『今は亡き父・母・弟』と妹・私」で、お父さんはよくハルビンに遊びに来られたのだそうである。

 


胡同

 東北4都の胡同も、露地裏そのものである。大通りの一歩裏側である。表通りのビルの間にフッと目に留まった露地裏、そこには緑が植えられている。中国華北から東北の半乾燥に近い土地では、木を意識して育てなければならない、つまり、人々は木を大事にする。それは、夏の日差しを避けて緑陰を楽しませてくれる。長春の大通りで目を留めさせたのは、そんな緑だった。
 その先に、崇智胡同はあった。崇智胡同は、ノーラさんの住んでおられたところ。番地まで記憶しておられて、コーアンタイロ、スーチコドー302バンチ。その個所は特定できて私たちはそこへ歩を進めた。商店の並ぶ表通りから一歩裏側に入って土の四つ辻に立つと、目の前に崩れそうな瓦屋根の長屋が並び、その向こうには窓ガラスで覆われたベランダが目立つ5階建てくらいのアパートがある。さらにそれらにのしかかるかのように最新のマンションが高々と偉容を誇っている。それぞれ、30年、10数年、2〜3年くらい前に建てられたかと想像される。そして、それぞれ零細層、中産層、富裕層の市民が住んでいると想像された。そこに、ノーラさんが住んでいた当時の家は残っていない。
 しかし、後日談になるが、備忘録の日誌に載せた写真を見て、ある方が足下の敷石の名残を見つけてくれた。これは、当時を垣間見る唯一の縁かも知れない。また、その同じ写真の崇智胡同には朝顔が緑陰を作っているところも写っている。
 また、長春の清和胡同は、あなたのやぎさんの住んでおられたところである。しかし、あなたのやぎさんは、その場所が自分の記憶とその時は一致せず、一致したのは、次の日、改めて来てみた時であった。次の日というのは正確でなく、6年越しに改めて来てみた時であった。
 すなわち、あなたのやぎさんは、6年前にも懐旧抑えがたく清和胡同を訪れた。記憶は、当時通った小学校を起点にできあがっている。毎日通った学校への道筋はしっかり脳裡に刻まれている。正門を出て帰宅する順路に沿ってあなたのやぎさんは歩いた。しかし、その行く手はT字路に突き当たり、おまけにどでかいビルが行く手をふさいでいる。首を傾げ、その辺りを歩き回ったけれど、当時の記憶につながる建物も見あたらない。結局、あなたのやぎさんは納得がいかないままに帰国せざるを得なかった。
 今回、ハッと気が付いたのは、第1日目に6年前と同じ思いで引き揚げたリターンマッチの、その夜のベッドでのこと。あなたのやぎさんは、正門の位置が違うのではないか、と気付いた。90度回転させ、そこを起点に周辺の地図を頭の中でたどってみた。あなたのやぎさんの足は、脳裡にある鮮明な地図の上で、6年前とも今日の日中も歩いた道とも違う道を歩き、清和胡同のもう一方の端にたどり着いていた。
 次の日、あなたのやぎさんはそこに納得して立っていた。その胡同の周辺に昔を偲ぶ縁は全く見あたらず、5階建てのアパートがどーんと建っているばかりであった。しかし、あなたのやぎさんは、そこに何とも言えない懐かしさと安堵を感じていた。
 北京の胡同に古き良き時代の趣を見てきた目にとって、東北4都の胡同は、最初に見た時、生活の匂いこそすれ中国の文化的伝統を想わせるところ少なく、現代中国の貧富の格差の拡大を何よりも思わせた。北京の胡同は、その文化性・歴史性故に一部地域で保存が決まったと聞いた。東北4都の胡同は零細市民の居住権故に取り壊される見通しもたたないように見えるが、高層マンションの日陰にどのような変化をたどるのだろうか。

 


松花江の泥水

 ハルビンの松花江で私たちはミニ・クルーズを経験した。ハルビンの街にもずいぶん高層ビルが建ち、水辺の建物はヨーロッパ風で、ライン川の船からの風景にも一部似ている、などと思っていると、誰かが「泳いでる人がいる」と声をあげた。確かに岸に近く、遠く、数名の人が泳いでいる。この曇り空の下、泥水のなかを泳いでいるんだから、きっと何かの信念やら目的を持っているにちがいないと泳ぎを眺めているうちに、思い出したことがあった。
 60年前の8月、信念や目的やらに反して松花江の泥水に投げ出され、やがてそこに飲み込まれていった多くの開拓民がいたことを・・・。勿論、私が経験したことではない。この夏、この旅に先立って読んだ「裂かれた大地」(二松啓紀著、京都新聞社)に書かれた史実である。
 終戦の年の春になって、松花江の下流、黒竜江省の舒楽村に京都から移住させられてきた平安郷開拓団。聞いていたのと大違いの悪条件、見よう見まねで始めた米作り。男は当然のように間もなく応召。女性、年寄り、子どもたちが、ソ連参戦により、初めての実りの秋を迎えることなく逃避行に追い立てられる。松花江をハルビンに向け船で移動中、ソ連の機銃掃射などにより、多くの人々が泥水に投げ出され姿を消した。泥水を生き延び、ハルビン新香坊収容所などに収容された人々にも耐え難い苦難の日々が、以後、長く続く。
 曇った今日の空の下、松花江の泥水は、その日と多分同じように蕩々と流れていた。
 
 


続く→