イベリア半島の歴史瞥見・・・イスラム、大航海、ハプスブルグ家

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外国を訪れるにあたって、その地の歴史を知っていれば、それを知らないときに比べ面白さが随分と違ってくるものである。そこで、イベリア半島の歴史を一瞥しておこうと思う。

イベリア半島は、ユーラシア大陸の南西端に突きだしアフリカ大陸に至近距離の地であるため、古くから諸民族が往来することとなってきた。イベリア半島北部、ピレネー山脈地帯には古くからバスク人が暮らしていた(今でも元気である)。そこへ、ケルト・イベリア人と呼ばれる人々が北方から移住して勢力を増し、スペイン人の主要な起源となった。古代には、ギリシャ人やフェニキア人の植民市もでき、フェニキア人は半島内においても広範に勢力を伸ばした。紀元前3世紀からはローマ人が進出し、全半島がローマの支配下に置かれた。その時代、キリスト教も広まり、その後の文化の基礎を築いた。5世紀になると、西ゴート人がピレネーを越えて侵入し、半島の大部分を支配するようになった。

しかし、8世紀になると、アラビア人、ムーア人などのイスラム教徒がアフリカ大陸より進入し西ゴート人による支配を廃し、それ以後、15世紀末までイスラム教徒の支配が続いた。この時期、イベリア半島の中世は、イスラム教徒と、彼らから支配権を奪還しようとするキリスト教徒とが激しく争いながら、イベリア半島の文化・歴史を作り上げていった。この時期の両教徒の争いをキリスト教側では、国土回復戦争(レ・コンキスタ)と呼んでいる。この頃、地中海の反対側、東側では十字軍戦争(1096〜1291年)が展開されていた。イスラムの最後の根拠地であったグラナダが1492年に陥落し、以後、キリスト教徒がイベリア半島を支配することとなった。中世のイベリア半島はイスラム文化の繁栄とレ・コンキスタの南進、それらの間の葛藤によって特徴づけられる。今でも、その結果をあちこちで見て取れる。

 コルドバのメスキータは古代ローマ(柱)、イスラム(赤い煉瓦の入ったアーチ)、キリスト教(十字架)の混合

この間、1143年にポルトガルはカスティーリャから分離、1385年に独立し、ポルトガル王国を建国し、以後イベリア半島ではスペインとポルトガルが紆余曲折を経ながら併存することとなった。

12世紀後半以降、この地には製紙法が伝えられたりバレンシア、サラマンカ、セビージャなどの大学があいついで創立されるなど文化的な発展も著しく、14世紀初頭には羅針盤の発明があった。他方、グラナダ王国を中心にイスラム文化の隆盛を迎えていたが、イスラム文化は、古代ギリシャ、ローマ、アレクサンドリアなどの遺産を維持発展させ、イベリア半島の文化基盤を当時としては非常に高い水準におくことに貢献した。

ポルトガルでは、14世紀から15世紀初頭にかけてエンリケ航海王子の力も与ってカナリア諸島など大洋上の諸島やアフリカ西岸への外洋航海の技術が発達した。15世紀中頃からいわゆる地理上の大「発見」が相次ぐ。すなわち、スペインの援助で1492年、コロンブスのアメリカへの航海が始められ、ポルトガルでは、喜望峰への到達、バスコ・ダ・ガマのインド到達、カブラルのブラジルへの到達の成功などが相次いだ。以後、主としてスペインはアメリカ大陸に、ポルトガルはアジアに植民地を拡げていった。

エンリケ航海王子は大航海時代を牽引した。

それらの結果、アフリカ、中南米、アジアから奴隷、金銀や香辛料を始め農作物など、莫大な労働力、資源、富がもたらされた。しかし、その裏面では、インカ帝国の滅亡をはじめとした中南米の苦難、植民地化による収奪がそれらの地域に広がったのであった。

ポルトガルは16世紀前半に黄金期を迎え、スペインは同世紀中盤以降、盛期を迎えることとなった。イスパニア王家のハプスブルグ家との関係は婚姻により確固としたものとなり、イスパニア王カルロス1世(1516〜1556)は、同時にドイツ皇帝カール5世となり、以来、フェリペ2世(1556〜98)を経てカルロス2世(1665〜1700)まで5世、80年余にわたって続いた。(この経過は、イベリア半島のその後および現在にとってきわめて重要な意味を持っているように思える。)この間に、次第にイスパニアの国庫窮迫が表に現れるようになり(1575年)、また、対外的には殊にイギリスの隆盛により、1588年のイスパニア無敵艦隊の敗北に象徴される世界の勢力交代も進んで行った。

イスパニアの文化は、むしろ国勢が衰えて後、17世紀を迎える頃、エル・グレコ、ベラスケスに代表される絵画やセルバンテスの文学などが生まれ花開いた。

かくして、イベリア半島の黄金期は、イスラムの繁栄の後に来た大航海時代、ハプスブルグ家の深い関与を特徴とする16,17世紀であったといえる。その後、近代的な資本主義の発展は遅れ、前近代的な諸関係を克服できず、近代ヨーロッパの主流になることなく周辺にとどまっていた。しかし、20世紀になって社会の矛盾はスペイン内戦として爆発し、イベリア半島は世界の注目を集めた。植民地の独立運動の高まり、独裁者フランコの死、経済成長に伴う労働運動をはじめとする民主化を求める動きを経て経済危機を克服し、特に1986年の両国のEC(ヨーロッパ共同体、現ヨーロッパ連合、EU)加盟を機に新しい歩みを始めている。

参考文献
1) 日本大百科事典、「イベリア半島」(地理:田辺 裕・滝沢由美子、歴史:斉藤 孝)、JapanKnowledge版
2) 世界史年表・地図、(亀井高孝・三上次男・林 健太郎・堀米庸三)、吉川弘文堂、1998
3) 図説 科学で読むイスラム文化、(ハワード・R・ターナー、久保儀明)、青土社、2001
 

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