文学紀行、伊香保まで

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 群馬県には、わたしの趣味に合った文学館が集中している。萩原朔太郎、田山花袋、徳冨蘆花、土屋文明、それに竹久夢二をくわえると、訪れるにはどこかで一泊しなければならない。泊まるのなら、まだ寒い時節故に温泉に限る。
 そこで、こんなルートを考えた:2018年2月27日(火)、自宅を出て高速道で館林で降り、田山花袋記念文学館、そして前橋に出て萩原朔太郎に会う。その日は、文学館はそれだけにして伊香保の千明仁泉亭(ちぎらじんせんてい)に泊まる。千明は、徳冨蘆花縁の宿だし、かれこれ20年ほど前にオランダ人をお連れしたことがある。翌日、宿を出てすぐ徳冨蘆花記念文学館と竹久夢二記念館。昼餉は水沢うどんを食して、午後一番で土屋文明記念文学館。そして高速で帰宅。



 行程
なお、徳冨蘆花記念館と竹久夢二記念館は、千明仁泉亭に重なってしまうので図からは省略しました。


◎ 田山花袋記念文学館

 館林の城跡の一画に田山記念館が建っている。運悪く『田舎教師』の企画展示の準備中で常設展示しか見ることができない。概ね年譜に沿った展示がしてある。
 花袋の生まれた館林を、彼は、「擂り鉢の底みたいな処」と記しているが、わたしには、せいぜいお盆の真ん中のように思える。『田舎教師』に描かれたこのあたりも擂り鉢の底にはみえない。自然描写に長けた花袋の表現としては首を傾げたくなる。



田山花袋像 花袋旧家脇


 『田舎教師』については、モデルとなった小林秀三の日記に花袋が接してから長い年月をかけて熟成させ小説に仕上げたことが解説されている。ヘミングウェイがイタリア戦線での従軍経験をやはり長い年月かけて後、『武器よさらば』を生みだしたことなどと共通する文学創造過程である。
 花袋は、日露戦争に従軍し、その後、自然主義を唱えながら悩み抜き、その結果、『蒲団』を生みだしたのだという。後に訪れた土屋文明記念館でみた表現を借りれば「内面恥部開陳小説としての」『蒲団』である。その『蒲団』がわが国における自然主義文学の源泉とされるのであるが、フランス文学のそれとは違っていわば日本的自然主義としての私小説の流れが近代文学史の中に太く存在している。藤村の『破戒』も源流をなすのだろうが、私小説の流れは、プロレタリア文学の流れにも影響を与えていて、小林多喜二の『党生活者』にその兆候をみる学者もいるようである。その観点からいえば、宮本百合子の『伸子』から『播州平野』あたりまでの長編小説群にもそれをみることができる。プロレタリア文学の伝統が、その流れをリアリズムとして如何に確立できたのかという問いが成り立つとしたら、その答は、文学界ではどういわれているのだろうか。展示を見ながら、そんなことを考えた。 

◎ 萩原朔太郎記念・水と緑と詩のまち 前橋文学館
 カーナビゲーションに導かれて前橋文学館に到着。二階が、萩原朔太郎の常設展示である。
 朔太郎は、少なくとも若い時代、旧制高校をふたつも退学し、自由勝手にいわゆる高等遊民のように過ごしている。親が医師だったからであろうか。しかし、「ふらんすへ行きたしと思へどもふらんすはあまりに遠し」と詠ったように流石にフランスまでは行けなかった。それはともかく、『月に吠える』をはじめ、彼の詩には、いろいろと心打たれるものが多い。この時代の精神を口語自由詩で詠ってくれているせいかもしれない。



朔太郎像、前橋文学館前


 朔太郎の故郷を訪ねたのは二回目だが、前回は、広瀬川は勿論、敷島公園、小出新道、刑務所など、彼が詠んだ市内の何カ所かを歩いてみた。すると、朔太郎の詩がいっそう身近に思えてきた。しかし、彼は、必ずしも故郷前橋を肯定していたのでもないらしい。後年の詩を読んでいるとそんな気にさせられることがある。
 後年の作といえば、『氷島』があるが、展示によると、『氷島』は「詩業の完成か、詩的衰退か」といった論争があるという。その『氷島』に「乃木坂倶楽部」という作品がある。東京乃木坂のアパートに住んだときの寂しさを詠った詩である。しばらくまえ、たまたまテレビで黒柳徹子の半生を描くドラマが連載され、その主な舞台が乃木坂倶楽部だったので、興味深くその詩を読んだ。何となく倶楽部の雰囲気が近しく感じられた。
 文学館の広瀬川を挟んで筋向かいに萩原朔太郎記念館がある。それは、前回来たときには、医院の一部を敷島公園に移設して記念館としていた。それが今、ここに再移設され公開されている。かつての書斎、離れ座敷、土蔵からなる。しかし、室内には、何も展示されていない。もう少し、活用の仕方があるだろうに、と思ってしまう。
 そのわきを流れる広瀬川は、今、冬の時期故か、水が涸れ、夏に滔々と流れていた姿はうそのようである。朔太郎が魚ならぬ生涯(ライフ)を釣ったという趣を偲ぶよすがもない。

◎ 千明仁泉亭にて
 千明仁泉亭(ちぎらじんせいてい)の温泉には水深がとても深いのがあって、客がいなければプールのように泳ぐことが出来る。十回もここに滞在した蘆花はきっと泳いだにちがいない。最後の逗留では、臨終の床からの籐椅子に担がれての入浴だったから、浸かるだけで満足だったのではないか。
 今、宿の部屋々々には、岩波文庫の『不如帰(ほととぎす)』があって、その冒頭を「上州伊香保千明の三階の障子開きて、夕景色を読むる婦人。年は十八九。品良き丸髷に結いて、草色の紐つけし小紋縮緬の被布を着たり」と読むことができる。続いて、周辺の小野子、子持などの山々の眺めが描かれている。われわれが泊まった部屋からもそれらをみることができた。今は、春まだきの時節であるが、緑の濃い頃、紅葉の季節も良さそうである。



千明仁泉亭より小野子山


◎ 徳冨蘆花記念文学館

 千明とは目と鼻の先にある蘆花文学館では、伝記資料中心の展示で、妻愛子には一枡が宛てられていた。蘆花の文学にとって愛子夫人の寄与は少なくなく、例えば『思い出の記』の冒頭、慎太郎の故郷の風景描写は、愛子の故郷菊池平野そのものであり、愛子夫人の語る声が聞こえてきそうである。それに類する描写は、多くの識者の指摘するところである。
 蘆花終焉の建物「二の段別荘」が、記念館裏に復元され建っている。終焉の間には、金属製ベッドがあり、その近くにガウンが掛けられ、籐椅子がふたつ置かれている。その他には菅笠がふたつ。ほかには何もなし。菅笠は、本館と別館を雨の時に行き来するのに女中が客にさしかけて歩いたのだそうである。立派な女中部屋がある。風呂には、蘆花は籐椅子に座ったまま、男たちに担がれて入れてもらってご満悦だったという。



蘆花記念会館=蘆花終焉の建物「二の段別荘」


◎ 竹久夢二伊香保記念館

 竹久夢二伊香保記念館は、二度目。でも前回よりは規模が大きくなっている。ヨーロッパの貴族の館のように立派な建物。それを維持するだけでも入館料は高くなりそう。何より私立の館のせいか、入館料が他より高い。他は公立なので300円前後、然るにここは1600円。



竹久夢二伊香保記念館、黒船館


 有名な黒猫を女性が抱いた『黒船屋』は、レプリカが展示されている。本ものは9月10〜23日のみ公開とのこと。
 細かなことだが、夢二夫人としては彦乃が有名だけれども、彼女が亡くなってから藤野と一緒になっている。夢二は、名前の最後が「の」である女性が好きだったのだろうか。

昼餉にと、丹次亭にて水沢うどんを食す。

◎ 土屋文明記念文学館
 土屋文明文学館は、県立の記念館である。田山花袋記念文学館と同じく、遠くに山並みをうかがう平地に建っている。文明が生まれた村、今は高崎市になっている保渡田村である。



土屋文明記念館


 文明の生涯を追う常設展示は、6つの章立てで構成されている。文明については、事前の知識があまりなかったので章に沿って見てゆくこととした。第1章 榛名山のふもとで育つ―『アカネ』への投稿―、第2章 東京から長野へ―短歌と小説と教職と―、第3章 歌壇の中枢に―写生、破調(散文調)、新即物主義―、第4章 万葉集研究の継続―自らの足で感じる―、第5章 川戸への疎開―敗戦と第二芸術論に抗して―、第6章 東京南青山での日々―歌壇の最長老に―。
 土屋文明は、活動内容において振れ幅の大きい文学者だった。戦争協力をし、勲章をもらったかと思えば、安保を詠うなど革新的でもある。それは、戦後は勿論のこと戦前でもそういえる。今回、伊藤千代子に関する記述にお目にかかることはできなかった。また、学者的、客観的、実証的な作風が目立つ。愛用のキャラバンシューズが展示されていて、それは、われわれの青年時代に出回っていたものであり、青っぽいビニール製である。これは、万葉集の歌の現地を訪問するときに履いたものであろう。
 企画展示は、「戦中戦後のこども雑誌」。『少国民新聞』『幼年倶楽部』『少年倶楽部』など雑誌、新聞を中心にした展示。これら展示物は、ある家から最近見つかった疎開中の品とのことであった。会場では、新聞、雑誌をじっと見つめる年配の男客が目にとまった。同じく男女の客もあった。



今回の足、Smart


文学テンコモリの旅であった。
 

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