自縄自縛に迷い込まない

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自縄自縛という言葉があります。雑誌「世界」2007年4月号の「世代を超えて語り継ぎたい戦争文学」という澤地久枝さんと佐高信さんの対談で、石原莞爾の評価に関し、石原は戦火の拡大を止めようとした、としばしば言われるが、実際はそうではなく、満州事変発起の当事者として自縄自縛になっており、止めてはいない、という話が出ておりました。

また、山本五十六は、アメリカを視察し、その国力の大きさを目の当たりにして、この国と戦争をしても勝てようはずがないと思っていました。日米開戦回避が適わなくなったとき、真珠湾攻撃で早い内に優位に立ち勝利を得ることを考えました。しかし、真珠湾の攻撃に赴く幹部に、情勢変化があれば引き返して帰ってこい、「百年兵を養うはただ平和を守るためである」のだから、と伝えたと言います。彼は、開戦に賛同していなかったのですが、真珠湾攻撃は行われたのでした。これも自縄自縛になっていたのでした。

また、昭和天皇は、国家元首にして統治権の総攬者として、度重なる御前会議を経て戦争が転がって行くようになると、例えば、昭和16年時点で、「日本は支那を見くびりたり、早く戦争を止めて、十年ばかり国力の充実を図るが尤も賢明」(小倉庫次侍従日記、昭和16年1月9日)と思ったとしても、実際にはそうは動かなかったのです。昭和天皇の側近の日記等によると、それに類するような言及はたびたびあるのだけれど、いずれも天皇といえども思った通りには軍部をコントロールできなかったのです。これも自縄自縛なのです。

天皇であれ、山本五十六であれ、石原莞爾であれ、世の流れの中で己の役回りをそれしかないという方向で演じなければならないことがあります。役目柄、一旦言い出したからには、あとから流れを変えようとジタバタしてももう遅いのです。演じないとなれば役を降りることになります。会社などの組織で、管理職などを経験すれば、自縄自縛の経験を大小、することになり、板挟みなどで悩むことも普通にあります。

戦争への道を歩いていた頃、国民はといえば、当時の、有無を言わせないような思想統制の下、これは、いわば他縄他縛の状態で歴史の流れに身を任せていくしかなかったのです。このことは、別に考えてみたいと思っています。

満州事変の中国の地で、その縄の縛りを振りほどいて違う流れを作ろうと個人で奮闘したのが五味川純平描く「人間の条件」の梶でした。でも、梶の並外れた体力と意志をもってしても、厳寒の原野に屍を晒す結果とならざるを得ませんでした。私は、梶を否定するつもりはありません。安易に衆や他人を頼んだりせず、己を強く持てたら良いなと思い続けてきましたし、梶の強さはある意味、憧れでさえありました。

戦争の場合、自縄自縛に迷い込むことを回避して違う別の流れを作るには、どのようなことが可能でしょうか。一般的には、ふたつが考えられます。

ひとつは、縄をなわないようにすること、つまり、戦争への流れをもみ消せる内にもみ消してしまうこと。戦争への流れは、権力を握っている部分からおこり、民衆からはおこりえません。それをもみ消すことは、民衆からもおこりえますが、権力の内部からでも可能です。権力の中にいる人は、仮に頭が良く、民衆の苦しみを知り、戦争をしたくなくとも、一旦、その流れに入ってしまうと自縄自縛になるのです。いずれにせよ、早い内にその動きをそれとしてキャッチして大きな声を上げることが必要です。あの戦争の場合、どのあたりでそれが可能だったでしょうか。

このあたりは、勉強不足ですが、いままでの知識で考えると、いわゆる大正デモクラシーが後退を始めたところが鍵だったのかと思います。大正時代は、民主主義思想の浸透がみられ、最大の出来事は、普通選挙法の公布だったのではないでしょうか。大正の末年、14年のことでした。もっとも、これは25歳以上の男子という制限付でしたが。しかし、これがピークであって、その後は後退に後退を続けるのです。早い話が、普通選挙法と同時に悪名高い治安維持法も公布されたのです。多分、ここが大きな分岐点でした。その意味では、その国会で治安維持法にただひとり反対し、暴漢の凶刃に倒れた山本宣治代議士は、最後の砦を守ろうとしたのでした。ついでにいえば、自然科学者であった山本は、自分のとるべき道が、自然法則に沿うように唯一の解に見えたと思います

当時は、大正デモクラシーといえども、その歴史上の重要性の理解はインテリを中心にした一部の人たちに限られていました。今に比べ雲泥の違いでした。だから、その大事さを力にして食い止めることはほとんど出来なかったのでしょう。私たちは、その歴史から学ぶことは出来ても、そこにあの暗い時代への流れを阻止する可能性を見出すことは出来ません。目をそらすことなく歴史に向き合い、歴史から学び、出来るだけ早い時期に、そのような流れを阻止するようにしたいものです。

もうひとつは、世の中、ひとりで生きてるんじゃないぞ、ということ。つまり、大勢の声をまとめて、別の流れを生み出すこと。上にも書いたように、現在は、民主主義的慣習や理解をおおくの人々は身につけております。昭和初期と、その点では大きく異なります。それらの人々が、もし一斉に声を上げれば、戦争への道を食い止めることは可能だと思います。

しかし、現在、憲法改正の動きが急になっております。それを進めようとする人たちが常用する方法のひとつが、近年の経験を振り返るに、少数意見を多数意見にしてしまう仕組みです。その最たるものが、小選挙区制です。過半数を構造的に割るようになった自民党勢力が、細川非自民政権のもとで取り入れられた小選挙区制により、その後、国会での党勢を盛り返し、とうとう憲法改正を国会で議論する方向へ動き出したのです。ヒョッとして、細川内閣も自縄自縛だったのではないでしょうか。

今、国民の過半数以上の憲法改正不要論に対し、衆議院では3分の2をこす勢力の自民党に加え、野党の民主党さえ、憲法改正案を用意して憲法改正の土俵に乗っています。国民の過半数以上が反対しているという世論調査の結果を政治を動かす力に出来れば、戦争をしないと強く主張している現憲法を存続させ、戦争への道を閉ざすことは出来るのです。いま、この動きはとても大事なところへ来ているように思うのです。

これらふたつの道は車の両輪のように動くのでしょうが、これらの他にもあるのかも知れませんが、このふたつは、捨てたものではありません。これらによってでも、孫・子の時代に戦争が起こることのないようにしてあげたい。戦争で苦労した親の世代の経験を知り、戦争を多少は経験した世代から、子どもたち、孫たちへの大きな責務のように思えるのです。

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