自己責任論でなく

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「自己責任」は、他人に押し付けるものではない。ましてや政府や企業などが個人に対して押し付けるべきものでは全くなく、押し付ける前に、大銀行がバブルのツケで困難に陥ったとき、国民の税金で立ち直らせてもらったことなどを思ってほしい。個人々々の自己責任自体を否定しないが、旅行中の安全にしても、社会における行動においても押し付けられてではなく自発的にそれを果たして始めて意味があるのだと思う。

ところが現今、受験、出世、事業などの成功を求めるような競争社会を生き抜くには自己責任しかない、といった風潮が目立つ。これまた、自己責任を発揮すべき場面かどうかおおいに疑わしい。例えば、今、日本の農業は国際競争においても国内経済においてもとても厳しい状況下に置かれていて、農業を生業として続けてゆくには大変な努力を強いられる(これにはこれで、別に原因があるのだけれど、ここではそれは論じない)。その努力を自己責任でやれ、工夫すれば競争に勝つ道は必ずあるはずだ、などといって農家個々の努力が足りないからだという主張が識者の間でもいわれる。農水省は、自己責任とはいわないけれど、それに等しいことをさせようとする。これは、農業以外の経済界においても同様である。

このような傾向が、教育の場に現れるとその悪影響は計り知れないと思う。塾で、受験テクニックを教え込むなどはその典型ではなかろうか。たとえば、これは本当に驚いたのであるが、慶應幼稚舎に入学するための塾、というものがあるのだそうだ。そのこと自体、私にとっては驚きだが、そこで、幼稚園に入る前の年齢の子どもが、椅子取りゲームをする、椅子を取った子どもはその場で「やったぜー」といって拳を振り上げることを教えられる、というのである。この世を生き抜くのは自己責任だ、ということを教えていることにならないだろうか。NHKテレビの教育に関する討論番組で、若い教員がまさにこのような立場を蕩々と語っていたのには驚いた。

自己責任論は、本当に身近にまで浸透してきている。長時間労働にあえぐ青年も、自分に能力がないから残業代を請求してもダメだ、と思っている。大学で教育を受け利益を得るのは自分だから授業料が高くても仕方ないと思っている。

このような例は、今の社会でいくらでも挙げられる。それらの結果、いわゆる「勝ち組」としてもてはやされた人の中に、「ホリエモン」などがいた。アブク銭をかすめ取って財をなすのは、いずれ破綻を来す運命にあったのかもしれないが、そこまで行かないで成功を維持する人たちが結構いるのではないか。重要なのは、その反面にかならず「負け組」といわれる人たちがいて、その数が圧倒的に多いことである。そして、そのかなりの部分がワーキングプアーとか、それに準ずるような生活をせざるを得ない、ということである。このような貧困は、自己責任論だけでなく、それ以外の多くの仕組みにより生み出されるのだろうが、それらの中で、自己責任論はとりわけ「粗野で非人間的な」(筑紫哲也、2008)考え方である。

では、今重要なこととして、それらに何を対置するか、である。いろいろ考え出されているかと思うのだが、私が注目しているのは、若者が連帯の行動を拡げようとしていることである。サービス残業、非正規雇用、理不尽なリストラなどに我慢がならず、仲間で語り合って「青年ユニオン」を東京下町につくり、残業代を払わせたり、正規社員化を実現したり、首切りを撤回させたり、の成果を上げている。それらと同類の潮流が、あちこちに生まれ、昨年5月には明治公園に3千人以上も集まりデモ行進を行い世間にそのような運動の存在を訴え、仲間の連帯を誓ったという。

上記の大学の授業料が高い問題でも、受益者は学生個人ではなく、社会である、という認識が世界的には主流なのである。だから、OECD加盟30ヵ国の内、15ヵ国は授業料が基本的に無料である。若者が得た教育の成果は社会の共有財産であり、社会を豊にするものである、という認識である。それを知った学生が、東大で年収400万円未満の世帯の授業料免除を運動で実現したという。個人受益者論を乗り越えて、連帯して運動をし、学費の上に連帯を体現したわけである。

民衆が、ひとりひとりバラバラでいるうちは、その人がいかに良い世直しの考えを持ち、良い行動をしていようとも、世の中を動かす力にはなり得ない。だから、その世の中を自分の利益に沿って動かしている主流集団にとっては、自分たちに反する動きをするような人々にはバラバラでいてほしい。自己責任論は、そのような文脈において御利益があるのである。ところが、バラバラだった人たちが連帯し大勢集まれば集まるほど、その主張は力をもってきて、主流がその地位から引きずり下ろされるかもしれない。

連帯した若者は、なぜ、連帯に価値を置くかというと、勿論、その共通要求が実現するからであるが、同時に、ひとりひとりが成長することを感ずるということも彼らが連帯に認めている価値であるらしい。ユニオンに助けられた多くの組合員が、次には助ける側に回るようになる。解雇された青年が団交を経験して、自分だけの問題じゃない、と気がついて行く。これは、自己責任論が教育的に問題がある反面、連帯論が教育に馴染みやすいことをも示していると思うのである。

これから、世の中、何とかしないといかん、という中で、青年ユニオンに限らず、それぞれの場でそれぞれの形態の連帯が進んでいくことに期待したいのである。青年に期待するところが大きいのであるが、なぜ青年かといえば、彼らが未来を担うということにとどまらず、何物にもとらわれずに新しいものを作り出す可能性が、年寄りより格段に大きいと思うからである。かつて、家族とか地域のつながりが万全でないにしても大きな役割を持ってきたが、高度成長の中でそれらが色褪せてしまった。それに変わる新たな連帯の形態も青年が作り出してくれると期待している。そこから、新しい社会の担い手が輩出して、年寄りもそれを助けながら世の中を変えて行けるのではないか。いつも、大きな世直しは青年から始まるのである。

引用文献
・筑紫哲也、2008:「ややシリアスな年賀状」、Aspara、筑紫哲也の緩急自在、朝日新聞社

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