上州絹の道瞥見記

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かねてより行ってみたい場所として温めてきたなかから手近ないくつかの場所を訪れてみようと、寒中の二日間(2010年1月31日〜2月1日)に車で出かけていった。主な目的地は、岩宿遺跡と富岡製糸場で、泊りは水上の温泉宿。それに、江戸時代に出来たという養蚕農家の建物も見て、途中長瀞のロウバイが盛りだというので宝登山(ほどさん)にも行ってみた。そんな風に関越道を、上州を中心に行き来したので「上州絹の道瞥見記」と銘打って、その旅を記してみました。

まず、行程を地図で掲げておく。



大まかには、自宅(H)→常磐道→外環道→関越道→長瀞宝登山(B)→伊勢崎経由→岩宿遺跡(C)→関越道→水上(泊;D)→中之条町大道富沢家(F)→関越道→上信越道→富岡製糸場(G)→自宅。ローマ字は、上図中のローマ字に対応。


1.長瀞宝登山〜ロウバイの香と秩父の山々を望む

長瀞は、友人の郷里なので、昔、長瀞の風景などを聞いて良いところらしいと思っていた。また、荒川が秩父の山並みを削って平野に流れ出す前に最後に狭いところを抜けるのが
長瀞で、そこはちょっとした谿谷になっている。地質学的におもしろいところらしい。だから、昔からいろいろな人が訪れ調べたり楽しんだりしている。宮沢賢治もここに遊んで岩石などを眺めたり船下りをしたりしている。それやこれやで、いつか足を降してみたいと思っていたのだけれど、今までは車で秩父に行くとき、通過しただけで足をおろしてはいなかった。

春もまだ浅いこの時期でも
ロウバイが一月半ばから咲き出して見頃を迎えていると新聞やインターネットで目にしていたので、上州に行く途中、花園インターチェンジで高速道を下りて寄ってみることにした。本当は、帰りに寄るつもりだったのだけれど、天気予報では、このあたり、明日は午後から雨ということだったので、変更して第1日目に寄ることとした。

 

それは、しかし、
日曜日を選んだことになっていて、宝登山の入り口から、駐車場に入る車の列。ロープウェイに乗るための列。とくに後者は1時間も並ぶハメになってしまい午前の空腹を抱えてロウバイ鑑賞となってしまった。でも、ロウバイは、見晴らしの良い頂上近くで、雲がちの晴れの日に黄色を敷きつめ、淡い香を時々鼻孔に運び込んでくれた。

2.岩宿遺跡〜旧石器時代の人びとと発掘者相沢忠洋さんを想う

関越道から北関東道に入ってしばらく、伊勢崎インターチェンジ(IC)を過ぎた途端、我がカーナビのカーソルが、道路のない真っ白の中を進んでいる。
北関東道は、目下、建設中なのである。でも、画面には、目的地は記されているので、次の太田藪塚ICで下りればよいことは分かる。北関東道は、後からグーグル・マップを見たらこの辺り、現在、次の太田桐生ICまで開通、と示されていた。

遺跡の施設は、相沢忠洋さんが始めて旧石器を発見した切り通しを中心にした野外施設と立派な箱ものの博物館からなっている。博物館の外には、「岩宿人の広場」という児童公園風の一画があって、世界の旧石器人の復元住居などがしつらえられているが、あまりに人工的すぎて今一ピンとこなかった。

博物館では、岩宿遺跡が教科書でどう扱われてきているかを知るための
企画展示が前日に始まったばかりであった。歴史教育のなかで、旧石器時代がどう扱われたか、例の旧石器ねつ造事件とは何だったのか、なども説明されていた。

岩宿遺跡は、1946年に相沢さんがここで槍の頭を掘り出したことから始まっている。その後、49年からは学術的な調査が大々的に行われて、日本にも旧石器文化があったことが分かり、それをいとぐちに、以後、全国各地で見つかるようになるのだが、この発見のどこが先駆的だったかといえば、それは、2万年以上古い時代に人間が住んでいたことを日本で始めて示したことで、そのような地層に人びとの目を向けさせたことにあるらしい。それまで考古学者に見向きもされなかった地層に彼らの目を向けさせ、そうすれば、新たに多くの地域から旧石器文化の印が続々と見つかるようになるわけである。
相沢さんの功績はとても大きかったことが分かる。

 
切り通しの前で発掘した石器を持つ相沢さん

ところが、相沢さんは、当時は学者ではなく、行商で生活を立てるアマチュアだったのである。時に、先入観や権威にとらわれない
アマチュアが、学者集団を引っ張ることがあるのである。

私は、静岡で生まれ子ども時代をそこで過ごした。静岡では、1943年に
登呂遺跡(弥生時代後期の遺跡)が軍需工場の建設中に見つかり、戦後になって47年から専門家による調査が行われた。学校でも、登呂遺跡については、全国平均学習時間以上を費やして勉強したに違いない。だから、登呂遺跡についてはとても良くいろいろなことを憶えている。ところが、岩宿遺跡については、私の学校時代にはすでに知られていたのにほとんど憶えていないのである。そこには、岩宿遺跡がアマチュアによって発見されたことに係わる軽い扱いがされたという事情があったらしい。相沢さんの伝記類をみると、そのあたりの事情が垣間見られる。

岩宿遺跡で興味深かったことに、その時代がマンモスや
ナウマン象のいた時代だったということがある。この辺りにはマンモスは来ておらず、シベリアと地続きだった北海道止まりだった。ところが、ナウマン象は南方系の象なので、この辺りにも住んでいた、という。そして何よりも、私の住む地域を流れる花室川の土手からナウマン象の骨がしばしば見つかるということで岩宿と自分とのつながりを実感できる。ナウマン象を落とし穴に落として狩りをしている画像がモニター・テレビに映されていたが、我が家のそばでもそんなことが行われていたに違いない。

いまひとつは、その時代の石器が見つかる地層、土層のこと。相沢さんが槍の頭を見つけた地層は、
鹿沼土の層の少し上にある。鹿沼土は園芸用に出回っていてとてもポピュラーである。鹿沼土は、3万2〜3千年前の時代に降った火山灰の層である。いずれも関東ロームと呼ばれる火山灰層群に属する。そうした馴染みのある土が旧石器文化と関係しているということは何故か、不思議な気がするのである。

 
出土した石器(岩宿遺跡HPより)

さらに、2万年という時間は、人間の一生を単位としてみるととても長い時間である。人類の高度な文明について、例えば中国4千年の歴史などというが、その5倍もの長さである。旧石器時代人は、それなりに苦労をしてくらしを成り立たせ、多くの楽しみも作り出していたに違いない。物質的には、今に比べるべくもないかも知れないけれど、精神的には、それなりに豊かだったのではないか、と想像するのである。今のところ、その時代に戦争が行われた形跡はみつからないという。人類の歴史は戦争の歴史などといわれるけれど、いわゆる歴史時代以前に戦争がなかったとしたら、人類の自然史の大半は
戦争のない時代だったことになる。ここから、戦争は人間の本性ではないと理解して、戦争のない社会を将来つくることの可能性を大きく感じてもよいのではなかろうか。

3.みなかみの湯

岩宿でゆっくり見学したので、水上の宿=
KKR水上水明荘についたのは6時少し過ぎだった。共済組合OBなので安く泊めてもらえるのだが、そのうえで最も安いプランのインターネット予約割引ということで1泊一人8,100円也。トイレ付きの部屋だし、温泉のお湯もきれいでよく温まる。夕飯も会席料理でおいしいものが腹一杯堪能できて、これで十分である。窓の外では、利根川をはさんで上越線の列車が時々走る。以前、列車で越後に越えたとき、窓から水上の谷間の景色を見て、いつかこの温泉に泊まってみたいと思った。今、それを果たしたことになる。嬉しいことである。今回泊まって新たに思ったのは、夏、ここに泊まって鳩待峠経由で尾瀬に行ってみたい、ということ。いつ実現できるだろうか。 

 
宿の窓から。利根川を渡って電車が行く

4.中之条町に「みなかみ紀行」の雰囲気をみる

ふつか目は、宿を少しゆっくり目に出て、水上の街外れから利根川の右岸方向に右折して曲がりくねった山道(県道270号線)に入り、所々で真っ白に雪を被った山々(多分上越国境、谷川とか苗場などの山々)をみては山道をすすみ、
峠越えで中之条町に向かう。峠も除雪されていて運転に何の心配もない。川古温泉のある谷筋に下り、猿ヶ京の少し下流で、三国峠につながる国道(17号線)に出て下り、湯宿というところからふたたび山に入る。そして、ふたつめの峠=大道峠を越えるとめざす富沢家住宅はもう少し。

みなかみ町側から大道峠を越して間もなく
富沢家住宅がある。ということは、そこが中之条の中心地からは最も遠い場所にあるということなのである。昔からの養蚕地帯だとのこと。その地帯をつらぬく通りに大きな看板があって、それに導かれて脇道にはいると、富沢家への道は、車一台がやっと通れる急勾配、急カーブの小道。昔は、人が歩いた道だろう。その道を車のエンジンを蒸かし加減に上ると間もなく真新しい茅葺き屋根の二階建ての農家が現れる。富沢家住宅である。来るにあたって電話した町役場の担当者が、「改築が出来たので、どうぞ見て下さい」と言っていた。管理人が常駐しているわけでなく自由に見学する方式である。


 
改築したばかりの富沢家住宅        二階の内部

まだ、地面にはブルーシートが貼られていて、庭面の仕上げでもやっているのだろう。入り口の
木戸を潜ると、大きな土間が広がりすぐ右手に馬を飼ったと思われる囲いが奥に向けて四つも並んでいる。その前にへっつい。左半分に座敷があって、囲炉裏のある居間や座敷が五部屋あってその回りを濡れ縁や縁側が囲んでいる。冬は寒かったのではないかと思われる。狭い階段を二階に上がると、養蚕の作業場や貯蔵室として使われたかと思う広い空間が拡がる。天井が高い。障子を開けて外に出ると外廊下になっていて、庭との間で桑の葉の上げ下げ、繭の運び出しをやったのではないか、などと想像される。

 
二階の廊下は外側にせり出している

資料によると、もともと作られたのが寛政年間の
一八世紀末とのこと。富沢家は、米、養蚕のほか、麦雑穀や繭の取引業、運送業、金貸しなどを行っていたという。1986年に、25代目当主が、建物を中之条町に寄付したのだそうである。そして、外装が傷んだのか、今回、それを改築したらしい。内部は古い材料のままである。

群馬県の田舎を行くと、庇の長い農家建築をよく見る。これは
養蚕農家に適した作りだといつか誰かに教えられた記憶がある。正確にはどういうことだったか、覚えていないのだが、何となく、雨が降り出したら蚕に食わす桑の葉をさしあたり軒下に放り込むことが出来る、というイメージが頭の中に出来上がっている。その真偽は疑わしいが、さしあたってちょっとした機能美というか造形美を感ずる。いつか、そのあたりの本当のところを確かめてみたい。

養蚕といえば、子どもの頃、
「キクといさむ」という映画を見た。たしか、それは福島県の農村を舞台にした物語であったが、養蚕農家のふたりの子どもとお婆さんが主役だった。蚕を飼う労働がとても大変なのだ、ということをその映画で知って記憶に強烈に焼き付いた。養蚕農家を見たりするとよくその映画を思い出す。この旅の道中でも、その三人が、降り出した雨に慌てて桑の葉を屋根下にしまい込む場面を思い起こした。

見終わってから、再び湯宿まで戻って下方向に走り月夜野ICまで出たのであった。沼田から猿ヶ京を通り三国峠を経て越後に抜ける道、この
国道17号線を走ってみるとさほど交通量は多くなくトラックなどにもそう会わない。しかし、地図で確認したら、この道は上州と越後を結ぶ動脈のような街道で、この辺りから新潟県にかけては三国街道とも呼ばれてきた道である。清水トンネルが出来て鉄道が通る前まではこれしかない道として栄えたと想像できる。関越自動車道が出来て、トラックなどはそちらを使うようになり、こちらはすっかり寂れてしまった、今は山道としか言いようがない。

このあたり、大正時代に若山牧水が徒歩やら馬で歩き回り、
「みなかみ紀行」を書いている。彼の旅は、佐久平から始まり、軽井沢から浅間の脇を抜け嬬恋方面に行き、草津、四万、法師と渡り歩き中之条にいたり、沼田に出て金精峠に至るという大変な旅なのであるが、要は利根川の水上(みなかみ)一帯に歌仲間を訪ねながらの温泉めぐりの旅だったのである。それに半月余りをかけている。今回はそのほんの一部ではあるが、牧水が何日もかけて歩いた区域をたどったのであるが、牧水のコースも車を使えば一日ほどでさっと走り抜けられるのであるから、これまた車社会とは恐ろしいものである。

5.富岡製糸場をこの目で見る

若い時代、とりわけ学校時代に習った歴史や文学の舞台に実際に立ってみると、その歴史や文学のすごさに応じた感激を味わうことが出来る。それを、私が強烈に体験した初めは、ドイツに行って(それは、ヨーロッパを始めて訪れた時だったのだが)ローマ時代にローマ軍が構築した土塁を掘り出して見せてくれたときのことであった。「ガリア戦記」で、ローマ軍が遠征して戦ったと記された昔日が、実際に目の前にあると思った鳥肌の立つような感激の記憶は今でも鮮明に残っている。富岡製糸場も、明治維新の希望に燃えた当時の人びとの心を思いつつ少年の日の記憶に焼きつけることとなった舞台である。錦絵のような俯瞰図は、これまた強く記憶に焼きつけられている。それをこの目で確かめてみたいという長年の夢が今かなえられるといっても決して大袈裟ではない。

宿を出た頃には雲もさほど厚くなかったのだが、昼近く月夜野インターチェンジ(IC)に向かう頃には本曇りになってきた。沼田に近くなると国道はバイパスでやや高い場所を走るので山と川と里のある景色が素晴らしい。ICから関越道に入り味気ない道をひたすら走り
上信越道に乗り換え富岡に至る。

カーナビに導かれて富岡製糸場に近い駐車場まで。丁度、昼時なので、そのまま車を走らせラーメン屋を探す。一方通行の道から広い道に出ようと一旦停止したらすぐ右手にラーメン屋があって、そこの親爺が出前から帰ってきたところ。「駐車場がある?」と聞くとすぐ脇の閉まったシャッターの前に止めて良いという。ラッキーとばかりにそこに駐車し富岡の
札幌ラーメンを食す。

市営駐車場に戻って車から降りしばらく歩くと、昔風の長屋などがある道の突き当たりが
富岡製糸場の正門。赤煉瓦の建物の向こうに大煙突も見える。とうとうこの目で、この足で富岡製糸場を確かめているのである。

1時からの
ガイドツアーがあるというので、重厚な倉庫に入り売店などをのぞく。有効に時間を使い土産物などを購う。

 
富岡製糸場正門を入ったところ    左の写真に小さく見える煙突を中庭から見る

富岡製糸場といえば、小学校か中学校初学年あたりの社会科で必ず習う。文明開化、
殖産興業のシンボルである。富岡製糸場が、明治日本の軽工業から始まった近代化の最先端を走った、というような知識が頭の中に出来上がった。大勢の女工がここで訓練されて地方に散らばって製糸産業を広めるのに大きな貢献をした、などと教わると、すげー女が集まっていたんだろうな、などと思ったに違いない。

時間になって姿を現したのが、黄色なジャンバーの
ガイド
の小父さん。正門脇の旧事務所(上左の写真)の前から始まって詳しく順番に説明してくれる。巨大な赤レンガ倉庫の建物は明治5年に建てたままのものだとその造りを具体的に見せてくれる。検査人館は、残念ながら中を見ることはできませんが立派な応接セットがありますなどと立て看板の写真を指しながら説明して行く。女工館は、私が昔頭に思い浮かべた女工が住んだのではなく、フランスから指導に来た女工が暮らした住宅なのだという。繰糸工場は、中に入って見せてくれた。機械は、昭和頃に使っていたものだが、工場の造りは当時のまま。

繰糸場の窓と内部

富岡市は、高田川と鏑(かぶら)川に挟まれた地域に中心部を持つ盆地の町である。富岡製糸場のすぐ南を鏑川が流れていて、川に削られたような急な崖の上に立っている。したがって、南側はとても見晴らしがよいのだが、その見晴らしのもっとも良いところに近くブリューナ館という立派な高床の建物が建っている。
お雇い外国人ブリューナさんの家族が住んだところである。絹織物の先進地フランスから来た技術者に、当時、月600円ほどの給料を払っていた。今のお金に換算すると670万円。ついでに、フランス人女工には50円から80円。日本人女工は、1等工女で1円75銭だったという。

 
 
ブリューナ一家の住宅       製糸場から鏑(かぶら)川の眺め

乾燥場、大煙突、蒸気釜所なども見せてくれて小一時間。終わったときには、気温がだいぶ下がり手をポケットに入れたいほど。高速道に乗ったときには
が降り出し、埼玉県内で本降り、帰宅したときには小降りになっていた。夜寝て起きた翌朝は銀世界だった。この地のこの冬初めての降雪であった。

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