自然は無限、知識は有限、知恵は普遍

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自然界は、人間の意識の世界も含めて森羅万象、汲めども汲み尽くせないそうです。確かに、原子にととまらず素粒子といえども終局の物質ではないらしい。宇宙の果てはどうなっていることやら。

それにひきかえ、かくのごとく、人間の知識、殊に個々の事象に関して知っていることは、その時代の科学などの水準に規定され限界がある。しかし、知恵というものは、どうやら、そういうことにはあまり制限されず、古今東西、普遍性が高い。時に、知識としては知られていないことも洞察することがある。そもそも原子という言葉は、古代ギリシャの哲人の使った言葉。その時代のエジプトやインドや中国や北海道にも、それと同じことを考え出していた人がいたかも知れない。その時代、高精度な分析機器があったわけでもなく、物質に関する知識はきわめて限られていたにもかかわらず、現代に通ずる概念に至った人がいるということは、驚くべきことである。このような力が、真の知恵なのではなかろうか。(もっとも、老子によれば「智慧出、有大偽(知慧出でて大偽有り)」というから、老子にとっては智慧と知識は同義らしい。)

現在、細分化された知識の量は膨大にのぼっている。それらを全て知り、極めることなど、一人一人の人間には不可能であるし、社会にとっても必ずしも必要ではないだろう。しかし、深いが狭い細分化された知的空間に生きていると、その人、あるいは集団にとって、関わるべき範囲にわたる見通しが利かず、関わる事象間の認識にバランスを欠き、不適切な判断、良くない行動に踏み込んでしまうことも起こりかねない。昨今の命を粗末にする社会や地球環境問題などを思えば、すでに良くないことが起こってしまっている、といえそうである。

そう考えると、知恵を働かせて、細分化され膨大になった知識を整理・統合して見通しよくバランスのとれた認識を共有することが喫緊の課題なのかも知れない。そんな努力を、個人も組織も社会も人類も、それぞれしたらよいのではないか。これからは知恵が大事にされる時代であってほしい。これは、実は「絶學無憂」の根本理念なのである。

こんなことは、すでに知恵者が皆さんに説いて回っていることなのだろうが・・・

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