教育の荒廃、国の荒廃

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親殺し子殺しが従来になく頻発し驚いていたら、中学生などの自殺が相次ぎ、教師の自殺も報道され、その教師を虐めたとされる校長も入院してしまったという。これらは、従来もなかったわけではなかったが、最近は連鎖反応のように頻発し始めた。一種の社会現象となった感がある。

校長や教育委員会は、そのようなとき、記者会見を行って、その責任をなにがしか取る立場にあるようであるが、事態をよく見ていくと、因果関係は、子供−教師−校長−教育委員会という系の範囲でがさごそ検討されたかに見えて、いつのまにかうやむやになってしまうことが心配になる。仮に裁判になっても、その系の中で誰かが詰め腹を切らされて、一件落着、とされかねない。

1980年代以降、いじめが問題になり、学校からの報告が義務づけられたようで、文部省などには報告数のデータがあって、それがテレビに映し出される。それをみると年々減っている。これは、そのような報告のあった学校は評価が下がることになるので、多分間違いなく、いじめが減っているのではなく報告が減っているだけのことと予想できる。地域や学校内では、隠された分、余計いじめの原因と結果が渦巻き、児童・生徒と教員のなかでは深刻な状況が沈潜しているのだと思う。

生徒も教員も校長先生もそれぞれがんばっているのだと思う。しかし、市場原理とか競争とかが大々的に学校に持ち込まれ、大切なものが失われつつあるのではないかと想像される。例えば、金融教育が大切だと言って、日銀総裁が生徒たちに「大切なものをお金に換えておきなさい、そうすれば必要なときにいつでもそれを取り出せます」などと講義をし、身を以て行き過ぎた例を実践し国会でも問題になった。生徒は、まさか親や命をお金に換えようとはしないだろうけれど、そんな講義を聴いた子供の中に、それに近い意識が浸透したら、大切なものが何か、という考え方がいつの間にか変質してしまうことはないだろうか。命、共同や協働、助け合い、友だちづきあい、家族の愛情などが日常生活の中で次第しだいに色褪せてゆくのではないだろうか。美しい国とは黄金に輝く国のこと、と思ってしまったら世も末である。

生徒の自殺などの事態が、行き過ぎた規制緩和という社会の波の一部であるなら、それは国の政策なのであるから、国は当然責任を取らなければならない。しかし、その責任は、上述の通り、教育委員会前後で終り、というのが現状であって、文部大臣や総理大臣までその責任は行かず、むしろこれを機会にいっそう生徒や教員は規則などで縛り上げられかねない。そして、日本人の多くは、小選挙区制というからくりがあることを知ってか知らでか、自民党とその亜流の政治を許し続け、決して自分たちが幸せな世の中を作ろうとはしない。多分、それは、1920年代から30年代の日本の状況と余り変わらないように思うのである。国は、かくしていろいろな形で荒廃を繰り返すものなのだろうか。

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