鞠子の宿を訪ねようかと思いあぐんでいたある日、姉から電話があった。「私が通っていた『みのり大学』の先生がね、あんたと丸子の学校で同級生だって言ってたよ」という。お名前をお聞きして当時の名簿をみると確かにあるのだが、記憶には戻ってこない。しかし、これも何かの縁かと、仕事で静岡に来たついでの春まだき、新静岡のバスセンターから藤枝行きのバスに乗りこんだ。

この地には、昭和22年から25年の春、小学2年の5月まで住んでいて丸子の学校=長田西小学校に通ったのであった


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「鞠子」という書き方は、十返舎一九の「東海道中膝栗毛」などに見られるのだが、現代は「丸子」をあてている。
 
 バスを「丸子橋」で降りると、そこは「鞠子の宿のとろろ汁」で名高い「丁子屋」の裏である。店は旧道に面していて、バスは、昔の田圃のど真ん中に通った新道を来るので、バスを降りると店の裏になるのである。

 大通りを挟んで、小振りの梅林が目に入った。山の斜面に白梅、紅梅の叢があちこち。近づくとほんのりとした香も漂っている。
「丁子屋」は、今日も休みだ。「今日も」というにはわけがある。ここ2,30年の間に、この地を訪れて「丁子屋」が開いていたためしがない。今回で3回目の定休日。前2回は、別の店でとろろ汁を食し吐月峯に参って帰ったのだが、今回はバスで来て徒歩の旅でもあるので、そちら方向には行かず、ここから駿府に向かって、安倍川の手前まで歩くこととする。

吐月峯柴屋寺は、茶の湯で有名で、風流な庭園がなかなか好もしい。

「梅わかな丸子の宿のとろろ汁」は芭蕉の句
「丁子屋」は、400年以上の歴史を持つのでいろいろな見ものがある。建物自体もそうだが、前をうろつく内に、こんな立て札が目に入った。私がこの地に住んでいた頃は、お祖母さんが健在であった。子供の私にいろいろなことを教えてくれた。そのなかに、ここに出ている歌があった。覚えているのは1行目だけだが、ここに歌われるとろろがとろろ汁と関係があるとは、うかつにも今の今まで気がつかなかった。ピートロロという鳴き声のことだろうが。

この立て札の裏には、十返舎一九の歌碑か何か、読めない流れ字で書かれたものがある。
「丁子屋」の前で旧東海道は左に折れて宇津ノ谷峠に向かって丸子川を渡る。その橋が「丸子橋」である。この写真の向かって左端、欄干の上に「東海道」という標識が見える。

今は、この右手奥に、静岡方面から山を貫いてトンネルで抜けるバイパスが通って、車はほとんどそちらを通るので、こちらは静かである。地域の方が、プランターに花を植えている。

私と同級だったという方は、この橋を渡った先の尾根の向こう側、「二軒屋」に住んでいた、と名簿にあった。通学には小一時間かかったのではないか。
丸子川は、この写真のように普段は枯れ川である。地下水として潜るか、用水として上流で取られているか。

川の真ん中に何かを燃やした跡がある。思うに、この時期だから、どんど焼きをしたのかも知れない。

この正面に見える小山には、餓鬼時代の私も登ったことがある。上級生に着いて行くのに一生懸命だったことを覚えている。
丸子橋から、街道を駿府方面に歩き始めると街並みの中に、このような石柱が立っている。

京都から来れば、宇津ノ谷峠を越えて急峻な道を下り、あと少しで駿府である。ここに多くの旅客が長居する要素はとろろ汁以外になさそうである。

当時は、丁子屋の辺りを過ぎると、松並木の向こうに、夏ならば、緑に波打つ田圃が広がって見え、山路と水田の違いは、目にホッとしたものを感じさせたに違いない。しかし、今はここの盆地には家や工場が建て込んで田圃の姿はほとんど見えない。
街並みは、あらかた今風の店や住居になっているのだが、時々、格子戸の表作りの家など昔の面影を伝える作りも散見する。

この街並みで目につくのが、屋号を示す看板である。2001年の「東海道400年」のイベントで作ったものを使っているのだそうだ。この酒屋さんは「三河屋」さん。丸子宿という副題を上に小さな屋形とともに載せている。ほかの家では、大概、軒下に掲げているのだが、ここでは、信楽焼か、大柄な狸と並べられていた。
さきほどの三河屋さんから進んで、丸子川の堤防に水神様を横目に見て街並みを行くと、「菓子司 徳栄堂」がある。

昼を食べた食堂の女将さんの話では、徳栄堂さんも建て替えてはいるけど昔からのお店、なのだそうだ。
狭かった道が徐々に広くなって、左側に大きな椰子の木が見えた。こんな木が昔からあったかな、と思って眺めつつ行くとその先に学校が見えた。私が通った当時は、勿論、木造の校舎で、大通りに面した校庭にはヒマラヤスギの大きな木が並んでいた。

それらは全て今はなく、モダンな校舎になっている。

この写真の生け垣が、当時を偲ばせている。そういえば、歩道に等間隔に長方形のマンホールが見える。この下は、多分下水道だろうが、当時は、きれいな水がとうとうと流れていて、エビや魚が良く採れたものだった。
学校の建物に気を取られていると、その手前に、昭和24,5年当時から立っているのではないかと思える建物に出くわした。ちょっと通り過ぎてから撮った写真がこれである。

写真にも見える郵便受けに「富永」と書かれている。富永姓は、丸子にはやや多いようであるが、記憶には残っていない。

板壁のすぐ前に見えるサザンカと梅の枝にはメジロが2,3羽、せわしげに飛び交っていた。


ピンクがかった敷石は小学校の手前まで続く。
その小学校の正面写真を、長田西小学校100周年記念アルバムからお借りした。

私の親爺が、ここの校長をしていた。終戦直後の昭和22年4月から25年3月までのことである。

満開の桜の木は、当時からのものかも知れない。
正門の周辺には古い木が何本も残っている。桜のほかに楠などである。それらを仰ぎ見て校舎の端近くまで来ると跨線橋がある。この写真は、跨線橋から校舎を眺めたものである。

学校の正門前に「たんぽぽ」という喫茶店がある。そこで昼食を食べ、昔からのことをいろいろ聞かせてもらった。そこにいた小父さんは、親爺の次の校長先生を知っていたが、親爺のことは知らなかった。
同じく跨線橋から校舎の反対側を見ると、小さな小山が見える。佐渡山である。

丸子の里は、南北と西を山に抱かれて東に開いた巾着のような地形である。宇津ノ谷峠などから集めた水が丸子川となって流れるはずが、地質か農業用水の関係かで、普段は枯れ川になっていて、そのかわり、田圃や人家の回りを潤している(た)のである。

その巾着盆地の北東の先端にあるのが佐渡山で、昔から天辺の楠がとても目立っていた。今は、鬱蒼と茂っている感じである。
この写真も、100周年アルバムからお借りした。昭和12年頃の写真であるが、私の通っていた頃と校舎の並びや風景など、とてもよく似ている。街道から、山の辺まで一面の田圃、というのもその通りであった。佐渡山頂の楠は、一本、凛々しく立っている。

グラウンドの向こう側、松の木の陰に家が見える。私がいた頃、ここに文房具屋さんがあった。そこの親爺と、うちの親爺とは、たしか、あまり仲が良くなかったようだ。そんな記憶があるのである。
学校の前を、引き返して、当時住んでいた家の辺りに戻ってみよう。

学校の敷地のすぐ西側、校地に地続きで校長住宅があった。この写真の右側にあったのではないか、と思われる。その向こうは田圃で、更にその向こうに地蔵堂があった。写真の左、自動車の向こうにその屋根が見える。

左端の壁は、校地の西端に立つ体育館の壁である。

校長住宅の縁側から、田圃と地蔵堂越しに向こうの山を眺めて大きくなった、といって良いくらいにこの山は親しいものだった。
その地蔵堂の現在の姿である。向かって右の庚申塔は当時からあったが、塔の数は記憶になく、近寄ってみると、奥の塔だけ新しく、昭和55年という年号がはっきりと見えたが、他は字を読み取れないほどに古びていた。

この回りは良い遊び場で、いちばんはっきり覚えているのは、向かって左に農家があって、その生け垣で、夏の夜、提灯の明かりを頼りにクツワムシを捕ったことである。しばらく家中賑やかだったことまで覚えている。
この山は、檜や杉、竹がたくさん植えられていた。それらの中にミカン畑があって、この写真の右下に見えるようなロープウェイで、収穫したミカンを丸子川を越してこちら側に下ろすのである。時に、積みすぎてたわんだロープが杉の木の先にひっかかって、黄色のミカンが緑の木立にパッと舞い散るのであった。

それが面白くて縁側から、お祖母さんと一緒にいつまでも眺めていた。

ある時は、泥棒が追われてこの山に逃げ込み、しばらく捕まらなかった。捕まったかどうかは知らない。
丸子川は、夏でもこのように水がないことが多かった。この写真は、地蔵堂のすぐ裏だが、このカーブする辺りの土手には、竹やら木などがいっぱい茂っていた。雨が降って水が流れ、やがて、このカーブの辺りには水たまりがしばらく残った。そこには、時々キラリと鱗を光らせた魚が何匹か泳いでいた。

私は、魚釣りには針を使うのだ、と何かで知って、早速、お祖母さんの針箱あたりから縫い針を失敬し、竹竿に糸でぶら下げ、水たまりに投げ込み魚の掛かるのを待ったのであった。
地蔵堂から、少し上流に谷津神社がある。秋の祭りには、私たち子供も連れだって出かけていった。夕方、太鼓の音につられるように、田圃を越え、友達を誘って、多分、提灯を持たされて行ったように思う。

神社は、橋を渡って行かなければならない。橋が近づいた頃、その橋を狐火が渡ってゆく、と今だから言うのであるが、当時は、村人が持って歩く提灯の灯火が気味悪く目に映ったのが、記憶に焼き付いている。打ち上げ花火と線香花火がやはり祭りの記憶にはある。
地蔵堂の学校側には、数軒の農家があった。クツワムシを捕った槇の生け垣の農家もそのひとつである。それら農家は今もあって、その間に、こんな露地があった。この風景は当時のものとあまり変わらない気がする。向こうに見える学校の校舎は異なるが・・・
川から分かれて、学校のグランドを回り込んで大通りに出ると、跨線橋の先に出る。そのそばに4階建てのビルがある。この場所が、白黒写真に写っていた文房具屋さんのあったところである、と、やはり「たんぽぽ」の女将が教えてくれた。その「たんぽぽ」は、この写真、通りの右側を学校の正門前まで行くとある。さらに先方、正面に見える山は、吐月峯柴屋寺のある山である。
昔、大曲と呼んでいたところで大きく左に曲がって、駿府に向かう。佐渡というバス停がある。そこから見上げると、佐渡山が間近に見える。頂の楠もよく見えた。

そういえば、幼かりし頃、静岡に行って帰ってくる時、バスでも徒歩でも、この辺りまでくると家が近くなったと思ったことを思い出した。

この辺りにあった工場が火事になったこともよく覚えている。

大曲を曲がらずに真っ直ぐに行って、同級生のお葬式にクラス代表で参列したことを覚えている。その女の子は、腸捻転で亡くなった。
丸子橋から安倍川橋の間で、無人販売スタンドをいくつも見た。ミカンどころなので、多くはミカンであるが、このスタンドではいろいろなものを売っていた。どこも、100円均一である。
佐渡交差点で、旧道と新道が交わる。そこで旧道から新道に入り、少しだけ丸子橋方向に戻る。そうすると、西宮神社入り口が佐渡山の麓にあって、そこを登るとやがて佐渡山周回道路に出る。そこを回って歩くと、丸子の里を一望できる場所に出る。犬の散歩やウォーキングの人たちと時々すれ違う。

この写真の中央、山の辺に赤い屋根が小さく見える。学校の屋根の一部である。


この下から学校まで、当時は田圃ばかりであった。鰻なども捕れたし、ホタルも勿論いた。
頂上近くには、周回道路も行かない。農作業用の細道をミカン畑や茶畑を抜けて頂上に到達すると、あの楠がある。

小さな頃から、下界で眺めていたを今、身近に見ることができる。幹に触ることも出来る。何十年間、下から見るたびに、あそこに登れる日があるのだろうか、と思ってきた。ここに立った時は、ちょっとした感激であった。
この楠の脇から学校の赤い屋根も見える。

この山頂の標高は102.8mとのことである。
街道に戻ると手越原。旧道を歩くと、多分、私の餓鬼時代を知っているであろう松並木が見えてきた。松並木の風情を残しているのは今回のルート上ではここだけである。

当時は、こんな松が街道に沿って断続的に立っていて、その間をバスが走ってくるのが見えた。お盆の頃になると、迎え火用の松材の木っ端を、こうした松の根方から失敬して使った。そのことを神様はご存知だったのだろう、いまだにバチがあたってばかりいる。
手越原には、大楠も立っている。

この写真ではよく見えないのだが、木の下を、お年寄りのご夫妻が寄り添って歩いている。この楠は、そのご夫妻の何倍もの年月を生きていると思われる。
手越原から手越に掛けての民家の表には、いろいろな草花、樹木が鉢植えなどで植えられている。これはその一例、アロエの花である。少々、疲れ始めた足を休めて眺め入ってしまう。

昔から、アロエは家々でよく作っていた。うちでも一時作っていて、切り傷にアロエの葉を裂いて貼り付けておくと化膿せずにきれいに治ったものだ。親爺は、胃の薬だと言って、おろして飲んでいたこともある。イシャイラズともイシャナカセとも呼んでいた。
手越のバス停まで来ると、安倍川橋も目の前。

このバス停は、呉服屋さんの前にある。呉服屋さんは今日は定休日らしく閉まっていたが、私がここへ来たとき、ちょうど、和服のおかみさんが外出から帰ってきた。

このバス停の柱には、端布の短冊が束になってつり下げられ、どうやら気に入ったものを栞などのために持ち帰っても良いようだった。


ここはもう安倍川橋の袂なのだが、安倍川餅のお店は、安倍川橋を向こう側に渡らないとない。
安倍川橋の南端。古い人は「弥勒(みろく)橋」とも呼ぶ。ここ手越のバス停からバスに乗り静岡市内に戻った。

この橋は古くて、いろんなことを知っている。静岡の空襲で、焼け出された我が家族は、親爺とお袋が手分けしてお祖母さんと子供つまり私、家財道具をリヤカーに乗せ、この橋を渡って左へ(黒い車の行こうとする方向へ)曲がり、この先、下川原の親戚に避難したらしい。私もその道を辿っているはずで、橋はそれを知っているが、私は2歳半で、知るよしもない。

新幹線から見えるこの橋のアーチは美しいのだが、間に一本、味気のない橋が出来たのであまり目にすることもなくなった。


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