中村彝のアトリエ

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新宿中村屋を開いた相馬愛蔵・黒光のサロンに参加していた中村彝。「エロシェンコ氏の像」「田中館博士の肖像」「カルピスの包み紙のある静物」などの作品で知られる画家です。

その中村彝が29歳の時(大正5、1916年)、東京下落合に立てたアトリエは、以後37歳で亡くなるまで画作に使われました。そのアトリエが、彼の故郷である水戸市の茨城県近代美術館の一隅に新築復元されております。開会中の滝平二郎遺作展に併せて、そのアトリエに足を運びました。

美術館の庭の林の中に、赤い瓦の洋館が建っていました。とても洒落た建物です。彼は、きっと強い西洋志向を抱いていたのではないでしょうか。彼は、若くして結核に冒されたため、洋行して絵画修行をする機会を持てなかったのです。19歳から白馬会系の研究所で絵の修行をしていますから、黒田清輝などの洋画と洋行経験から大きな影響を受けていたでしょうし、事実、ルノワール、セザンヌ、レンブラントの絵から多くを学び取っていたのです。

中村屋のサロンには、少なくない画家・彫刻家たちが集まっていました。そのなかで中村彝は、相馬愛蔵・黒光の娘俊子をモデルに何枚もの絵を描くうちに彼女を恋するようになったのですが、黒光の反対で結婚は不可能になりました。しかし、「病気と悲恋とのからみ合ったもだえの底から立ち直って」(臼井吉見「安曇野」第三部、筑摩書房、1974、p.105より)、このアトリエの新築となったのでした。彼は、このアトリエを拠点に「田中館博士の肖像」「裸体」などの「ひとのたましいに語りかけずにおかない」(同上)名作を描き上げたのでした。

 

 
アトリエにて制作する中村彝(茨城県近代美術館、中村彝アトリエ・リーフレットより)

新築復元ゆえにまだ古びていないその建物に、裏口から靴を脱いで入ると、まず家政婦部屋と台所からなる一画があります。その先に三間四方くらいの天井の高い洋間があって、そこがアトリエです。イーゼルやいくつかのイス、テーブルや花瓶台などの台類、フランスで作られたというソファーなどが置かれています。天井の一部は屋根の傾斜を使ったガラスの天窓になっています。その下の壁は大きなガラス窓ですから、絵を描くための十分な光が得られるようになっています。

アトリエの一隅には彼の絵がカタログとして掲げられていて、このアトリエとそれらの絵との関係などを見ることができます。壁の一部には、「カルピスの・・・」絵に描かれた壁のくりぬきがあります。台の上には、1919年作の「静物」に描かれた水差しが蓋を紛失したままで置かれていました。それに、その絵の真ん中を縦に分断している台の足は、アトリエの真ん中近くに置いてある台の足のように見えました。

この洒落た赤い瓦の洋館は、当時、とても目立っていたそうで、埼玉県所沢の飛行場を発着する飛行機がこの赤い屋根を目印に飛んだという話が伝わっているのだそうです。そんなしゃれたアトリエを、29歳の若さで持つことができたのには、今村銀行の今村繁三や成蹊学園の中村春二などの援助が与っているとのことです。その期待に応えて、その後、「エロシェンコ氏の像」「老母の像」など多くの傑作を生み出しました。

アトリエに隣り合ってすぐ居間があります。外に出られる両開きのドアがあります。テーブルやイスのほかに畳を載っけたベッドがあります。彼はそのベッドで息を引き取ったのだそうです。彼のデスマスクはアトリエの隅に展示されていました。

現在、新宿区下落合3丁目では、「中村彝アトリエ記念館」として2012年竣工・開館を目指して準備が進められているとのことです。

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