夏 の 陽        

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八月六日の広島に、もうひとつの太陽が照りつけた。八月九日の長崎までも。その瞬間、世界中が真っ白になった、と老人がいう。真っ白な光は真夏に相応しいのだが、その時のそれはその年の夏の陽ではなく、百何十億年の宇宙の歴史の凝縮であった。

夏の陽は、三ヶ月にわたり太陽光のスペクトルをばらばらにして一日々々に並べ直した不規則な光の移りゆき。しかし、おおすじは、雑木山のすべての木々が、葉を最大限に拡げ、その反射光を映した梅雨明けの青空からはじまり、真夏の珊瑚礁海岸の真っ白な輝きを峠に、汗を風が運んでいって残暑見舞いが一段落したある日の、夕陽が映ったハンテンノキの広葉に見つけるアントシアンの煌めきに至るコンベックス。冬の陽のコンケイブにつなげれば春秋を挟み三百六十度の輪廻が完結し、又現れる夏の陽。一歳半の赤児がみつめる眼差しの先に、青年アスリートのエネルギーと、手を繋ぎ街角をゆく男女の微笑み、そしていかなる上手のデッサン画家でも描けぬほどの皺深き老婆の赤児を見守る目。それらを夏の陽が彩る。

夏の陽は、果てしなき時系列合成曲線の上に、百億年の物質壊変と化学反応と生命の進化の歴史、そしてまた北緯三〇度から四五度にわたる一人ひとりの生活の輝きの満載。至るところ微分不可能で自己相似なフラクタル空間。一九四五年の夏以来、二〇世紀の後半は、それらの複雑系曲線の立体分布から外れる異常ピークがビキニで、サハラで、タクリマカン沙漠で、ノバヤゼムリャで、何万回となく現れ、そして東北福島で、その分布曲線が温暖化というバイアスを受けて夏の陽が燃える。

夏の陽を、今や、宇宙の知恵を手に入れたと不遜にも勘違いする狂気に汚されてなるものか。

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