新潟往復 新幹線の窓より

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前日に降った雨が上がったため、関東平野は西から雲がなくなってきており、上越新幹線が大宮を出てしばらくすると窓外に雲の端から山々がだんだん見えてきた。最初に筑波山の二つの峰が加波山と覚しき小さな峰を従えて眼に入り、眼を左に移すと那須の山々、日光連山、赤城山などもすでに雲からほとんど離れようとしている。

窓近くの野は、あちらこちらに草紅葉。関東平野に多い欅やコナラの黄葉が盛りを迎えている。沿線は、住宅地や工場、倉庫などが連なり、それらの間に田や畑が交じるという風景である。上州の山間にはいると、上越新幹線もトンネルが多くなり、ちょっとの間、外界に出ると紅葉より黄葉が勝る山肌が眼に入る。吾妻川かの掘り下げた谷間の村々は秋の風景になりきっている。

新清水トンネル超すと、湯沢あたりの山が墨絵のごとく雲を被って、雨上がりの風情。山間の集落は、こちらがわも黄葉が勝る。浦佐駅の後、トンネルを抜けると長岡の平野に出る。長岡駅を出ると、右側に信越本殿の線路が並行して走り、徐々に遠のいてゆく。この辺りには、はさ掛けに使うかと思われるハンノキらしい木々の連なりが所々に見えるくらいの農業地帯である。右手奥には、魚沼丘陵が続いている。燕三条駅を出て間もなく信濃川の鉄橋を渡ると線路に並行して走る川は、もう信濃川ではなく分水路の中ノ口川である。旧味方村あたりは、住宅地も出来てはいるが、立派な水田地帯が続く。住宅地が多くなると右手前方に新潟ドームがひときわ目立って見える。新潟の街も随分高層ビルが目立つようになった。

今回の旅行で新潟に向かうときには右側窓際に席を取ったのであったが、帰りも右側窓際だった。しかし、今度は、反対側が見えるわけである。今回、窓外に確かめようとした地として、大関松三郎の郷里古志郡黒条村下々条、今は、長岡市下々条(しもげじょう)があった。

大関松三郎の詩集「山芋」は、私ども、小学生の頃、優れた児童詩として紹介され、映画にもなった。

 一くわ
 どっしんとおろして ひっくりかえした土の中から
 もぞもぞと いろんな虫けらがでてくる
 土の中にかくれていて
 あんきにくらしていた虫けらが
 おれの一くわで たちまち大さわぎだ

これは、「虫けら」の冒頭だ。この詩は、学校でいくつかの詩を読んだり聞かされたりしたもののうちに入っていたように思う。こんな詩はとても書けない、と思えた。

その後、かなり年配になってから、この詩作品が、実は松三郎が自分で作ったものではなく、指導教員だったさがわみちおの手が大幅に入ったものである可能性が強いという書き物が出ていることを知った。それは、ちょっとした驚きだった。しかし、それら書き物をいくつか読んでみて思ったのは、共著にしても、そこに表されている戦前の農村生活の一端とそこで生きたこどもの姿が実に生き生きと叙情を以て伝えられていることは大きな成果に違いない、ということであった。「ぼくらの村」に歌われた夢は、いくつかは実現したけれど、他の多くはいまだに夢であり続けている。

そして、何よりも厳然たる事実として胸を打つのは、松三郎があの大戦でいのちを失い、、彼の詩は、さがわみちお先生と共著であれ何であれ、「山芋」以外に見ることができないことである。

新幹線と並行して走っていた北陸自動車道が徐々に遠のき、列車もやや速度を落とし始めた頃、田圃の中に急に町めいた一画が窓辺に現れる。この辺りが黒条村の中心地で学校などもあった。そして、またすぐ田圃になる。その田圃の向こうが下々条なのである。頭の中には、地図からそんなパターンを作っていたのだけれど、新幹線は、徐行しているように見えても速い。瞬くうちに通り過ぎようとした。構えたカメラのシャッターを押す間に目の前を通り過ぎてしまった。あわてて、後ろを振り向きざま、もう一枚。






デジカメ画面を眺めてみると、少し流れて写った写真には、ややベッドタウン風の住宅地といった風情が写っていた。黒条村主要部である。その左側に田圃が少しだけ写っている。その奥が下々条のはずである。もう一枚には、下々条の前の田圃が写り、奥の方に小さく弥彦山らしい山が写っていた。すでに列車は長岡の駅に滑り込みつつあった。今回の下々条は、地点確認程度で終わってしまった。やはり、現地に足をおろしてみないと松三郎の生きた土地の空気と土は味わえないと思った。

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