能登半島瞥見記

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能登半島は、是非とも行ってみたい地のひとつでした。今回、仕事で、ちょっとだけですが、行くことが出来ました。

羽田空港を朝発って能登空港に降り立ちました。レンタカーを借り、まず、その日(2010年9月13日)の午後は、半島の付け根近くの石動山(せきどうさん)の山頂近くに行き仕事をして、夕方に半島の先端近く富山湾側の珠洲(すず)市に移動して一泊、次の日は、宿から宝立山(ほうりゅうさん)にて仕事を済ませて能登空港に向かう、という行程でした。その途上で見聞したことの中から、特に心に残ったことをいくつか記しておこうと思います。




能登半島の行程。F:能登空港、B:石動山、D:珠洲市鵜飼の「のとじ荘」、E:宝立山


石動山周辺を、口能登、能登空港以北、宝立山周辺を奥能登と呼ばせていただこうと思います。その上で、両者の違いの大きいことに目が行きましたので、まずそのことから記します。

口能登では、まずショッピングセンターが眼に入りました。田圃の中に比較的最近通った道路が真っ直ぐに走り、そうした道路の交差点付近にそれはありました。私たちは、飲み物を買ったりして、その中をほんの少しだけでしたが歩くことが出来ました。極近年になって、あちこちで見ることのできる、街が丸ごと入ったような大型ショッピングセンターほどではなく、1世代前のものかも知れませんが結構客を集めている風情でした。

その日の仕事が終わって、宿に向かうため、北上して中能登町、七尾市郊外を通り能登空港に向かい口能登を後にしました。その沿線では田圃の中を新しい道が走り、十字路にはコンビニがあり、道路沿いに車のディーラーや何かの事業所の建物が建ち、レストランやドラッグストアーなどの店も散在します。市街地を走ると、時々、閉店したお店や食堂が見られます。それら街並みの姿は、普段見慣れている茨城県南部の街並みと似たものでした。これらのこと自体には、何の面白みもないのですが、翌日、車を走らせた奥能登の風景を話すための下地になります。

翌日には、珠洲市の宿、それは国民宿舎のとじ荘といって、珠洲市の郊外、見附島という小さな島のある海岸にあるのですが、そこから珠洲市の市街を通り抜け海岸を去って山に入り、一度は道を間違えて古くからの集落を散見し(上記の工程図には記していません)、本来の道路に戻ってからは、広域農道を調査地点近くまで走り、調査終了後は再び広域農道を能登空港に向かったのでした。

この日の行程で眼に入った街並みや里山の様子は、多分、奥能登の典型的な今の風景を見せてくれていたと思うのですが、上記した口能登の風景とはまったく違うものでした。まず、ショッピングセンターは見当たらず、せいぜいスーパーマーケットでした。シャッターが閉まった店の代わりに、活気のある小さな商店の並ぶ市街地だったり、郊外ではコンビニと共存した雑貨屋さんだったりでした。宿を出て間もなく、海沿いの街並みの道路は一部、片側通行になってそこを塞いでいるのは、3台の御輿と3、4台の山車の行列でした。今日は、地域の祭りの日のようでした。

農村部にはいると、私たちの目に印象深く感じられたのは、山間の傾斜地にある水田の稲刈りの済んだ姿であり、刈り取った稲が3,4段に掛けられたはさ掛けの風景でした。カントリーエレベーターと呼ばれたりする大型の籾の乾燥施設がこのあたりに在るのか無いのか、今回は情報を得られませんでしたが、はさ掛けがあちこちにあるところから見れば、在ったとしてもそれらのウェイトが高くないことは間違いないでしょう。私たちが道を間違え、道を教えてもらった農家では、納屋で籾摺りをやっていました。

それらが、単に行政や農協の事業が遅れているということなのか、意識的にそうした技術を選択して継承しているのか、興味あるところですが、今回は確認できませんでした。

次に印象に残ったのが、農家の佇まいです。秋めいた日射しを浴びた緑の深い里山に、光沢のある黒い瓦屋根が、茶色の板壁と白壁の上にどんと乗っている姿が、あちこちでたくさん目に入りました。青空を背景にした緑、茶、黒の取り合わせは、目に鮮やかでした。



奥能登の農家、真ん中の出入り口から籾摺り殻が吐き出されている


これらの風景には、奥能登の農村の原風景が残されているにちがいありません。

能登空港に繋ぐために敷かれたと思われる広域農道の在る一画では、道沿いにズラリと並ぶサルビアの赤い花を眺めて走ることが出来ました。行政の指導があったにしても、こうしたいわば余裕を感じさせる施策ができるということは、奥能登の農村が少なくとも知恵を働かす面で元気である証拠ではないだろうかと思いました。

もうひとつ、奥能登というより、能登半島の富山湾側、これを内能登といえば、輪島側の日本海沿岸を外能登といえるのでしょうが、外と内の比較です。

実は、外能登には車を走らせる機会がなく、山の上からチラリと外海を垣間見ただけですが、一緒に行った現地の方の話で補うと、泊まった宿のすぐ前の海辺の風景が理解できるのです。すなわち、泊まった宿の窓のしたがすぐに渚になっています。その先には、見附島という、巨大な岩を置いたような小さな島があります。その島が、10年、20年前に比べるとやせ細っているというのです。



見附島は宿のすぐ前(のとじ荘のHPより拝借)


私は、冬の風波がそれほど強いのかと思う反面、そんなに激しい冬の海があるとすれば、この宿は余りに海に近すぎるのではないか、と思って聞いてみました。すると、日本海側はそうですが、富山湾側はそれほどではなく穏やかで、この程度離れていれば大した波はかからない、ということでした。

島の岩をも削り取る風波は、さほど激しいものでなく、穏やかであっても少しずつでも削り取って知らぬ間に島の姿をやせ衰えさせるのか、と継続する自然の力のすごさを思いました。そして、外能登の冬の波風は、どれほどの岩を削り取っているのか、そこで暮らす人々が、それらと共存して生きているその姿をも思ったものでした。



泊まった宿は奥能登珠洲市の海岸に近く建つ


能登半島の最高峰は、5〜600mほどです。昔は、ほとんど半島中に人々が営みを展開し、海にも出て、自然の恵みとともに豊かな暮らしを築いていたのではないでしょうか。珠洲市は、過疎化が進んで今や3万何某かの人口になってしまった、と現地の方は言っておられました。口能登に見られるような現代化が、人を都会に引き寄せさらに便利な生活を作り上げてきた結果なのですが、その延長線上にあまり明るい光が見えない現在、奥能登で、激しい波と静かな内湾を備えた里山が甦る方向はないのだろうか、それを探求することは、未来にとって有益なことかも知れない、などと思いながら帰路に着いたのでした。

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