逝きし世の面影 日本近代素描 T   渡辺京二(著)  葦書房 (1998/09)

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未来に生かして行くべきことが見つかるかも知れない,  2011/1/15

明治維新以後のいわゆる近代化により失われたものがいかに多かったか、ということは、時に頭に浮かんだとしてもあまり突き詰めて考えることなくきたのですが、この本では、まさにそれが行われていて、初めて深く考えさせられました。著者は、それらが、かつて日本にあった文明、と言っています。ここで文明と言っているのは、ことほど左様に大きなものを失ったという著者の思いの現れなのでしょう。この本を読むと、今でも残滓が残っているものもないわけではないが、多くは失われてしまった、と気づかされます。

著者は、明治維新前後を中心に、少なくない欧米人が当時の日本に滞在し経験し書き残した文献を大量に読み込みます。巻末の参考文献に掲げられたものだけでも、英文21件、和文(翻訳)128件、評伝等(和文)21件です。章ごとに掲げられたものを入れるともっと多くなります。

それら文献の記述の中から、いろいろな側面からの記述を整理して紹介してくれます。日本人の気質、暮らしぶり、礼節、ゆたかさと貧しさ、多様さ、労働、身分、性、女の立場、子ども、風景、動物、宗教、文明といった側面を扱います。それらにつき、いろいろな立場での記述を並べて示します。たとえば、日本ではどこにも乞食を見ることがない、という記述と、乞食が路傍で死んでいたという記述とを併記します。また、多くのページにおいて、従来のこの時代に対する常識に対峙して、そうではない事例を外国人の目でとらえた記述により紹介します、たとえば、絶対専制支配が行われていたとされる日本において、奉行所の土地譲渡要求に対し拒絶した農民の話を紹介し、幕府が民衆の権利を尊重していた点を示します。 それらが、500頁近い本書の中で繰り広げられます。

そして、それらに対する解釈や評価を著者が付していますが、全般にそれらはさらりとしたものになっています。それら解釈や評価から読み取れる著者の立場は、ひとくちに言えばアナーキーな立場ですが、それはそれとして、本書のように広範に外国人の目から日本を見直すことの価値、意味は小さくないと思われます。客観的にデータを集め、それらを整理して見せてくれます。武谷三段階論を以ていうならば、本書は、現象論的段階から実体論敵段階にかけての仕事と位置づけられるでしょう。したがって、武谷のいう本質論的段階、つまり、この場合、消え去った文明の本質や、その現代における意味などを明らかにする仕事、それは、この著者の仕事ではなく、読者や後続研究者の仕事に属するといえます。かくして、この本の中から我々がさらに深く認識し、場合によっては未来に生かして行くべきことを見つけうるかも知れない、いや、確かにある、と期待させられるのです。

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