セミナーの効用

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私は、大学では農学部を卒業した後、農業と環境の分野で仕事をしてきた。これら分野では、何か新しい技術を考案したから即それを事業化して商売に結びつけよう、という形で実用化することはほとんど無く、併せて何か別の要素と複合させた上で現場に持ち込むと言うことが多かった。

身近で単純な例を示せば、家庭から出てくる台所ゴミを効率的に肥料にする技術を開発したとする。その実用化のためには、肥料化の基本技術に加えて、散布機械はあるか、それで上手く播くには風に飛ばされないように粒状化しなくてはならない、散布機械の散布孔と肥料のサイズと形状を工夫しなければならない等々。要するにシステムとして周辺要素をも考えた上でないと実用化に至らないのである。

そのように、ある種、ステム科学の研究だったので、私も(仲間は皆同じなのだが)、随分、隣の分野を勉強させてもらった。隣の方が面白いこともあって、寄り道、回り道もした。面白かったけれど、そのせいでかあらでか、まとまったひとつの仕事をしたという達成感は少なく、これからもなすべきことが残っている気がしてならない。でも、あれやこれやに接することができたことは良かったと思っている。

それはさておき、そのような状況では、セミナーがそれら関連分野の勉強のための最大の場であって、それがなかったら私の研究はもっともっと質の低いままで終わったと思う。システム科学でなくより直截的技術分野であっても通ずることかと思うので、私の経験を簡単に記してみたい。

セミナーのやり方はいろいろであった。

毎週、曜日を決めて担当者が簡単な準備(演者と演題を決め仲間に知らせる)をして、仕事に直結した論文を読んでゆくセミナー。

仕事の経過を報告しあうセミナー。これは、皆が忙しくなると休みになるので、幹事が暇ができた頃、言い出さないと長く中断してしまう危険があった。

民間の団体が実施する有料セミナー(何回かにわたるもの)にも通ったことがある。放射線取扱主任者にはそれにより合格することができたし、応用統計学や数理解析はそれぞれ、そのようなセミナーで基礎を仕込んだ。単発のセミナーは、遠方のものも含め随分通った。

月1回、土曜日に虎ノ門の小さな弁護士事務所にあちこちから集まって、世界の第1線の生態学者の教科書を輪読するセミナー。学部卒であった私にとって、これは大学院のセミナーに参加している気分であった。

夜の時間帯を設定して、専門とは違う話題で問題提起をして議論しあうセミナー。農業や環境という複雑な対象を扱うときには、必要かつ有効であったと思う。昔の農書、環境思想史、新聞・雑誌の記事などなど、いろいろなものが対象になった。

これらふたつのセミナーでは、研究というものを同好の士から多々教えられた。

生態学と統計学は、私の研究に不可欠であったが、それらはセミナーから多くを学んだ。考えてみると、専門英語の多くはこれらを通じて学んだのである。

いずれにせよ、継続こそ力なりであった。積もり積もると随分賢くなったと感ずるものである。途切れてしまうと、自分がバカになる、と焦ったり心配したりしたものである。セミナーをやっている期間は、頭が活性化されている感じがあったが、中断期には、身体は動き活性化していても、研究の質は低下していたと今でも思う。

アクティブに成果を上げる研究室は、必ず何らかの形のセミナーをやっていた。だから、私は、セミナーをやらない研究室はあまり成果が上げられない、と信じている。セミナーこそ、私のようなボンクラにとっては技を磨く唯一の道場であった。セミナーがなかったら、私は研究を続けられなかったと、セミナーに感謝している。

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