主婦の眼と男の眼

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70代半ばの女性が、インターネットの掲示板で書いておられた。「8時15分の黙祷。そのとき不意に弟の最後の日の顔が思い浮かんだ。原爆には遭わなかったけど、あの戦争がなかったら、死ななかっただろう。/二度と同じ過ちを繰り返さない、ために靖国神社に通い続けるという、首相の挨拶が虚しく響いた。/あの過ちを呼び寄せたのは、誰だったのだろう」と。

特に主婦が、社会に向けて発言するとき、男に比べて、どうしてこんなにリアルに表現できるのだろう、と感ずることがある。社会に向けて動き出すときには、どうしてこんなに健全に動けるのだろうとも思う。

終戦間もない総選挙に女性議員が大量進出を果たした。第5福竜丸事件などを契機に原水爆禁止運動が動き出したとき、それを引っぱったのが主婦達であった。その後、国会は、女性を押しのけた男性の場と化した。原水爆禁止運動は、男達が分裂させ、いまだにその弊を克服していない。そんな中で、母親大会は、「生命(いのち)を生みだす母親は、生命を育て、生命を守ることをのぞみます」というスローガンのもとで運動の分裂を避けつつ今でも運動を継続している。

私は、農業のことや環境のことを考え、社会に向け、少しは私なりの発言もしてきている。その中で、近年、強く感じているのは、広い視野、俯瞰的視角、総合的視点といったことの大切さである。主婦は、それを持っている、と思う。

男の多くは、職業を持っている。職業は、いつ頃からか現代に至るにつれて分業化、専門化、細分化の一途をたどってきた。生産の効率を求める限り必要なことであろうけれど、職業人男性の頭は、思考回路までもがあっさりと分業化、専門化、細分化してしまう。特に、技術系職業においては、その傾向は著しい。その結果、仕事のことは分かっても、仕事のこと以外では皮相的にしかものごとを考えられない男性が多くなる。家庭のこと、育児のことなどは、「女の仕事」と心得る男性が多くなる。政治、経済のことでも分かったようなことを言うけれど、時代々々の常識やマスコミからの情報に流される。マスコミも、情報を商売としているので、情報発信の最大基準は売れることになってしまう傾向が強く一面的で、大切なことの発信が少なくて、言わずもがなのどうでも良い情報、時には接しない方が賢くていられるような情報が多いのである。そんな中でも、情報を選り分けて、何が大切かを手に入れるのは女性、特に主婦層に多いように感ずる。

女性の多くを占める主婦は、男に比べ、社会的にも思考回路においても専門化、細分化を免れている。立場にこだわるところがない、ということであろう。職業を持っていても、根本的に変わらないように見える。お茶くみ問題に象徴されるように昇進が男に比べきわめて限られてきたことによるのかも知れない。女性の遺伝子的違いがあるかどうか、私は知らない。勿論、例外はあって、特に技術系で昇進を果たした女性の中には、男と同様な思考回路を持つ人がいる。でもそれは幸か不幸か少ない。しかし、近年の女性の社会進出が進むとそのような女性も増えるかも知れない。立場にとらわれない思考回路を保った女性が減らないことを期待したい。これは、女性がそのような遺伝子をもっているかどうかを実証することかも知れない。

女性は、生命を産みだす役割を担っている分、戦争を嫌い平和を愛する気持が強いのであろう。母親は、ヘマをした子を抱きしめてあげ、安心して立ち直るのを気長に待つことができる特質を備えている。生活や健康を安全で豊かな生活環境のもとに置きたい気持ちが男より強いように見受ける。女性は、ものごとを、その状況を感性から、敏感に、平等に、リアルにとらえ、何が大切かを即座に判断する力が勝っているように見受けるのである。

ただし、女性に対しても、国政選挙などで苦々しく思うことがある。投票行動に、そのような特性を発揮していないように見受けるからである。生命を守り育てるのに良くない政治家に対しても、投票してしまっているように見えるのである。これは、多分、政治家の作戦勝ちとなっているからではなかろうか。男が、簡単に演説や新聞記事やテレビニュースにだまされやすいのは分かるが、女性までもその特性を発揮できずにだまされるのは、大多数の政治家が、全体が見えないように見えないようにと日頃から行動し、宣伝しているからである。このことは、いつか、しっかり調べてみようと思っていてまだできていないので詳しくは書けないのだけれど、多分、そういうことではないかという仮説である。

世の中の動きなどを見るとき、何が重要でどこに働きかければ良いのかは、総合的視点が有るか無いかで大違いである。総合的に見るといっても、実はそれほど難しいことではない。世の中の現象の大半は三つ前後の要因で説明がつく、という経験則が知られている。簡単な例として、身体測定で、身長、体重、胸囲を測って、個人の体格を特徴づけることが多い。身長に比べ体重が大きく胸囲がそれほどでない人は食事を制限するか、適切な運動をふやすかを考えることになる。等々多くの例がある。総合的視点を養うことは、その気になればそう難しくはないのだが、男は、立場などにとらわれることが多く、それを難しくしている。

例えば政治に携わっていると、選挙民からどうすれば選挙票をもらえるか、何をおみやげにすれば選挙資金をたくさんもらえるか、それらを有利にするには、どういう法律を作ったり変えたりすべきか、どこの役所に働きかければよいかなどを始終考えることに自ずから長けてくるようである。男の場合、そうなることはいともたやすいことである。肝心要の選挙民の暮らしが良くなることは何時考えてくれるのか、と思わざるを得ない。勿論、ここにも例外があって、本当に人々から感謝される政治家は男であっても少数ながら常に存在し続けてきた。しかし、多くはそうではない。有権者に何が重要かを理解できない政治家が多すぎる。

学者も似たような所がある。多くは専門バカである。遺伝子の専門家は、しばしば、遺伝子が分かるとそれだけで何でも実現できるような錯覚に陥りがちである。酸性雨の専門家の中に、山の木が枯れると酸性雨の影響かも知れない、と証拠もなく論文で主張する人が現れる。山の木を枯らす原因は、山のようにあり、その中から酸性雨が原因であると確認し、実証することはきわめて難しい。地球温暖化が大問題だ、となると今まで温暖化のオにも触れたことのない学者が、私の知識を展開すれば温暖化防止技術になりますよと言って研究予算を頂こうと役所や財団などに提案書をだす。これも勿論必要なことであるのだが、猫も杓子も温暖化という状況には、針小棒大なところがある。温暖化防止は、いくつもの側面があって、大規模な総合的対応が必要とされるのに、私の技術が地球を救う、といったセリフが飛び交うのはいかがなものかと思う。それは、学者や学問の品位を汚すものでもある。科学の総合化というのは、科学の分野や領域の総合化より何よりもまずは科学者の総合的視点を確立することのはずである。

政治家も学者も主婦の眼、つまり主婦のように何事にもとらわれず物事を総合的にとらえる視点を鍛えて、ものごとを一面的でなくリアルにとらえ、それぞれ有権者の幸せや科学の進歩に向け適切に取り組み、圧倒的多数である庶民の幸せに日々貢献して欲しいものである。男は、そのような視点を持てるよう日々訓練をしなければならない。

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