思索の淵にて―詩と哲学のデュオ  近代出版 (2006/04)  茨木 のり子・長谷川 宏(著)

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パトスとロゴスの絡み合いから何が生まれたか?, 2006/10/5

茨木のり子のひとつひとつの詩を哲学者の長谷川宏がどう認識したか、を繰り返す28対のデュオである。

詩人は「さゆ(白湯)」や「鄙ぶりの唄」の変哲もない身近な対象から、「わたしが一番きれいだったとき」の戦中・戦後の歴史、私たちが文明史のどこにいるかという「問い」まで、実に広範な時空を天翔る。それに対し哲学者も、抽象的な概念の羅列では全くなく、ご自分が開いている塾に集まる子どもたちや飼い猫から島根の田舎町、スペインの町並み、学園紛争から日本や世界の歴史の駒々を語ることで相対している。

どちらかといえば、詩はパトスの申し子であり、哲学はロゴスの申し子である。それらがうまく絡み合うところから魅力ある何かが生まれることは大いに期待される。この本で、それが生まれているかどうかは、読者それぞれの読み方に依る。とはいえ、これはそれぞれの申し子が一流である証拠かも知れないのだが、おおかたの読者には魅力ある何かが見えてくるのではないか、と思われる。

大切なのは知識ではなく認識である、といわれる。哲学が現実に対し有効な力を発揮できるのは、世の森羅万象に対する深い認識を我がものとしている時であろう。詩が、人の心をうつのは、詩人が相対したものを主として感性において深く認識している時であろう。そういう意味で、このデュオは深い認識の産物を示すことに成功していると思う。

私が詩を書いてもそれにエッセイをつけてくれる人はいないだろうから、せめて、たとえば宮沢賢治の詩に対し、短いエッセイを配したデュオを作ってみようか、などとひそかに思った。



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