イベリア半島・・・イスラムと中南米に支えられた歴史と文化

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スペイン・ポルトガルの旅をしたのは、2003年の10月だった。 (最初の写真へ飛ぶ

ずっと前から、イベリア半島の両国の歴史に関して思いめぐらしてきたことがあった。あの大航海時代に世界中を巡っては南米、アジアなどから莫大な富を手に入れた両国、わが国にまでも足を伸ばしたポルトガル、無敵艦隊を擁したスペイン。それら両国は、近世以降、その凋落振りは覆うべくもなく、現在は経済的に決して先進国ではない。なぜそうなったかということはここではさておくとして、今、どんな具合になっていて、あの時代、この国々が手にした富は今どうなっているのか、これからの可能性はどの辺りにあるのだろうか、この目で確かめてみたい、と思っていた。


その答えは、「旅人の記」のコーナーに書いた。そこで、この写真房では旅の途上で見たり考えたりしたことの一端を、写真の説明としては多めに書いておくこととした。それらは、「旅人の記」を書くときの素材にもなっている。「旅人の記」に使った写真は、ここでは省いたつもりである。今のところ、おもに技術的問題から順不同であったり、拡大して見られなかったりするが、面白そうな写真や記述があったら眺めて見てください。

なお、「佑子のホームページ」にも少し違った写真も掲げております(同じものもあるけれど)ので、まだ、ご訪問いただいていない方は、ぜひ、そちらも覗いてみてください。そちらでは、ギターの曲を聴きながら見ることができる仕掛けになっています。「佑子のホームページ」で検索して入ることができるはずです。


 トレドの街は、その不思議な力を以て、二,三十年の間、私をひきつけ続けてきた。
 コの字形に流れるタホ川に囲まれた旧市街。その高台にあるアルカサルの偉容は、エル・グレコや安野光雅の絵によって眼に焼き付いていた。西ゴートの時代からイベリア半島の重要都市として、イスラムとヨーロッパの辺境で、またフランコ軍と人民戦線軍のせめぎあう街としても激しい歴史に幾たびか揉まれてきた。そんななかで生き続ける街。
 そして、私は、2003年10月14日、マドリッドから1時間、バスでタホ川を渡った。この街は意外に小さく、そして、タホ川は洗剤の泡が漂う汚水の川だった。
 スペインの城ではしばしば水をぜいたくに使っている。ここセビージャのアルカサルでも室内の泉から外へ水を流している。
 イベリア半島は、年間降水量が200〜700mmと幅はあるが、総体に余り多くはない。作物でいうと小麦が採れるが、雨が少ない年には小麦も危ないといった条件の所。つまり、水は貴重品なのである。
 八世紀にここを計画したイスラムの王様は、貴重な水に何を託したのか、力か夢か、いのちか神か、宮殿のあちこちに水の仕掛けを作りまくった。アルハンブラにも水の仕掛けがたくさんあった。
                (2003.10.22、セビージャ
 アルカサルは、八世紀にイスラム教徒が要塞宮殿として建設したことに始まるセビージャ最古の建築物。ここのパティオは、なかなか美しい。パティオは、イスラムの民の気候に適応する知恵からできている。暑い日差しのもとでうまく日陰を作り、過ごしやすい住環境を作り出した。家庭規模のものから宮殿規模のものまでいろいろなスケールのパティオがある。
        (2003.10.22、セビージャ、アルカサル)
セビージャ大聖堂ヒラルダの塔。これらは、バティカンのサン・ピエトロ、ロンドンのセント・ポールにつぐ三番目に大きな大聖堂とのこと。十二世紀末に建てられたモスクとミナレットを母体に、十五世紀末から十六世紀末にかけてキリスト教の建物が追加され、その後、若干の変化があって今のものになっている。つまり、イスラム教とキリスト教がその盛期に自分の栄華を積み上げているわけである。
            (2003.10.22、セビージャ大聖堂)
ヒラルダの塔は、ミナレットの上に1568年に鐘楼を載っけて作られた。このミナレットは、登るのに階段でなく螺旋坂道を使う。ロバで上がったためという。実際に上まで上がってみたが、階段より具合がよかった。ロバも喜んだことだろう。
 途中の窓や上からのセビージャ風景は素晴らしい。宮本常一のお父さん流に言えば、真っ先にここに登ってセビージャの概観をつかんでから街に繰り出すべきである。
                 (2003.10.22、セビージャ)
 グアダルキビル川に沿うメスキータは、ローマ神殿→サン・ビンセンテ教会→メスキータ→大聖堂という長い歴史を反映している。円柱はローマ時代の建物から持ってきて使っていて素材も長さもまちまち。赤い煉瓦と白い石灰岩のアーチが天井を支えている。中央部にモスクを壊して作ったカテドラルが作られている。このようにイスラム教徒の建物にキリスト教の建物を混築するという発想は、何かの考えがあってのものかいい加減なのか、何ともよく分からない。
                  (2003.10.23、コルドバ)
 アルハンブラ宮殿は丘の上に作られている。窓から、白い壁の家々の並ぶ町並み、ロマの人々の住む坂の街など、いろいろな街の様子を眺めることができる。王様は、街を眺めて何を思い、何を企んだのだろう。
              (2003.10.24朝、グラナダ
 中くらいの街で、この手のお店をよく見かけた。これは、セゴビアマヨール広場の近くで見かけた雑貨屋。いろいろな籠が面白い。おもちゃ屋さん、八百屋さんなどもこんな感じ。瀬戸物屋さんになるとショウウィンドウになることが多いようだが、そのディスプレイもこんな感じで、外に見せよう、よく見てください、という気持が現れている。
                  (2003.10.15、セゴビア)
 アビラの街は、12世紀に建てられた城壁に囲まれている。カテドラルでは、今日この日、サンタ・テレサの日ということで、修道院から聖体である彼女の指の入った聖体顕示台なるものが運び出されどこかに移される儀式が行われているらしい。
 カテドラルから出て少し歩いたところに素敵なパティオが見えたので入って休憩。我が一行のおばさまたちの憩っている姿が見える。ここのお客は、皆、静かに坐って静かなおしゃべりを楽しんでいた。
                   (2003.10.15、アビラ)
 コインブラ大学「鉄の門」。中に旧大学。今日は、副学長の葬儀がここで行われていた。
 この大学は、1290年開設、ポルトガル最古の大学。1911年までは、国内唯一の大学だったとか。この大学、リスボンとここを行ったり来たりして移り歩いたのだそうだが、1537年、ここに定着。種子島に鉄砲がもたらされたのが1543年だった。
                 (2003.10.17、コインブラ)
コインブラ大学「ジョアン王の図書館」。1716〜24年に作られた。3つの部屋に分かれていて、16〜18世紀の蔵書が3万冊。書棚はブラジル産の黒檀に金箔漆塗り、と当時のポルトガルの繁栄がうかがわれる。かつて、本の虫退治にコウモリが使われたとのこと、別種の本の虫もコウモリに恐れをなして退室したかもしれない。
                 (2003.10.17、コインブラ)
 今回スペインに行くに先立って、ドン・キホーテ前編を読んだ。私の脳みそは、物語はともかくとして風刺で思いをかき立てられ、その対象に小泉内閣がしばしば立ち現れた。
 セルバンテスの時代、ドン・キホーテが果たした役割は時代を先読みして、人々が近代的人間として自立してゆくことに強く関わったと思われるが、今、読んでみると、現代がその頃と少しも変わっていないのか、セルバンテスが今に通じる普遍性を備えていたのか、あるいはその両方なのか、いずれにせよ、確かに偉大な古典なのだなあ、と少しだけれど感じてしまった。
      (マドリッド、スペイン広場、2003.10.14夕)
 マヌエル様式の窓。この窓を、DNA構造を世に先駆けて解明したワトソンかクリックが見たら、DNAの二重螺旋構造を思うに違いない。このマヌエル様式は、ロープ、鎖、海草、珊瑚などのイメージをふんだんに使って、大洋に乗り出したポルトガル人の歴史を思わせる。トマールキリスト修道院。キリスト騎士団の根城だったので、宗教要素と軍事要素が共存している。たとえば、「テンプル騎士団の回廊」というのがあって、ここは、ミサが終わっても、ミサ中に襲われてもすぐに対応できるよう、馬に乗ってミサに参加できる構造になっている。
         (2003.10.17、ポルトガル、トマール)
 オビドスの街は「谷間の真珠」と呼ばれるのだそうですが、それは、ディニスという王様がこの街を妃のイザベラにプレゼントしたということと関係があるのでしょうか。
 この街では昼食後、街を散策。途中で入ったトイレは、伝統のタイル=アズレージョの壁で囲まれていました。
          (2003.10.18、ポルトガル、オビドス)
ロカ岬ユーラシア大陸の最西端。この塔の基部、白く見えるプレートには、「ロカ岬、ここに地果て、海始まる・・・カモニエス」とある。北緯38度47分、東経9度30分、海抜140m。この下には逆巻く波を受けた岩が青海にどっかと座っていた。向こうに見える灯台にある事務所で、訪問者の名前入りの到達証明書をもらった。この十字架が対面する向こうには、ニューヨークがあるという。
           (2003.10.19、ポルトガル、ロカ岬)
 私たちは、突然人骨に出会ったら、ギョッとしたり、思わず合掌したりします。私は、人骨に対する考え方は、洋の東西、国や人種などが変われば大きく変わることがあるように思うのです。ヨーロッパの人たちの中には、私たちと全く違った考えをする人たちがいるのです。
 ポルトガルのエボラという町の聖フランシスコ教会人骨堂の壁の写真です。ここは、修道士がシャレコウベに囲まれて瞑想するためのお堂なのだそうです。私には、そんなことは全く想像できないことでした。そこでは修道士が、私たちのように、思わず合掌したりも、ギョッとしたりもせず、心静かに瞑想するのだそうです。            (2003.10.20)
Hotel Alcantara。このホテルのレストランで昼食をとった。この日は軽食で、サラダ、サンドイッチ、フルーツ。このての重厚な建物、例えばパラドールが結構レストランやホテルになっている。かつて、この街はピサロのもたらした銀で潤い、この街道は「銀の道」と呼ばれた。今は、その威光も薄れ、この建物も、商売しないと維持してゆけないのかもしれない。
           (2003.10.21、スペイン、カセレス
 フランシスコ・ピサロの銅像が、生地トルヒージョの広場に建っている。1533年、ペルーを征服しインカ帝国を滅ぼしたとして知られるが、同時に莫大な黄金や新農作物などを故国にもたらしたに違いない。
 同時代に、ピサロたちの征服を「インディアス破壊」として弾劾した修道士ラス・カサスはセビージャ生れだが、セビージャにラス・カサスの銅像があるかどうかは知らない。
 でも、多分、植民地の人権より、実益の方が評判が良かったのだろう、と残念ながら思ってしまう。
  (2003.10.21、エストレマドゥーラ地方トルヒージョ)
 こんな石の山をあちこちで見た。堀田善衛さんの書くものには「ごろた石」と書かれ、「スペインはごろた石の国である」とさえ断言される。ひょっとすると、農地に開拓された頃は、こんな所ばかりで、その石が建築材料になって、だから石作りの建築物が多いのだろうか、まさか。
(2003.10.20、スペインに戻って、トルヒージョ近郊
メリダローマ劇場。BC24年、アグリッパにより建設された。現在では、ここでメリダ古典演劇祭が行われ、階段席に6000人収容とのこと。
             (2003.10.20、スペイン、メリダ)
ディアナ神殿。1〜2世紀末ごろにローマ人が作った。ローマの支配は、イベリア半島の奥深くまで及んでいた。コリント様式。円柱の土台と柱頭は大理石、柱は花崗岩。
 保存状態がよいのは、中世に要塞として活用されていたため、という。天正遣欧使節の少年たちもこの街でこの神殿を眺めたであろう。
            (2003.10.20、スペイン、エボラ)
川の波打ち際に立つベレンの塔。16世紀に船の出入りを監視するために建てられたのだそうだ。リスボンの港には新大陸との間を行き来する船などが多数憩ったことだろう。しかし、それらはチャンと入港税のようなものをとられていたようだ。砲台や地下水牢があり、王様たちの居室もあったというから、かなり厳格にやっていたのだろう。
 丘の上から大きな道路を下りながらテージョ川を背景に見るベレンの塔は美しい。司馬遼太郎はこれを「テージョ川の公女」と呼んでいる。
                 (2003.10.19、リスボン
アビラの街を囲む城壁。全長2516m。九つの門、塔の数は86。11世紀に建てられた。ヨーロッパの辺境であり続け、レ・コンキスタでそれを脱した街。
 この写真は、町外れのロス・クアトロ・ポステス(四本柱)から撮影。
 辻邦生に「スペインのかげり」というエッセイがある。この街の不思議な佇まいを、この街に汽車で近づき、カテドラル、サン・ビチェンテ教会や街角に立ち、坂道を歩きながら考える掌篇である。
             (2003.10.15、スペイン、アビラ)
リスボンアクアス・リブレス水道橋。モンサント森林公園の外れを走っていたように思うが、この記憶はあいまいである。さほど有名でも古くもない。セゴビアのローマ水道橋は有名で確かに凄かったが、これは、それらの伝統の上に新たに作られたものか。水道部分に見える建造物は、なかなか凝っている。
                  (2003.10.19、リスボン)
サグラダ・ファミリアの入り口の一角、少し下がったところにこの像がある。昔の日本人の姿を思うこの像は・・・
                (2003.20.25、バルセロナ)
アルハンブラの東、坂を上がってゆくとヘネラリーフェがある。ここは夏の離宮だったのだそうだが、植物がたくさん植えられ、花が咲き乱れていた。シエラ・ネバダから引いているという水がふんだんに流れる水路が中庭中央を走り、その両サイドからは小さな噴水が水を吹きあげている。園内のオレンジは、マグネシウム欠乏か、葉の葉脈回りだけ緑色で、葉脈間は退色して黄色っぽくなってしまっていた。ここからの下界の景色もなかなか良い。
(2003.10.24、グラナダ、アルハンブラ)
アルハンブラ、天人花(アラヤネス)の中庭(パティオ)。池は、34.7m×7.15mとのこと。水鏡になって、回りのものを美しく映し出すようになっている。光と草花と水でオアシスのイメージを作り出しているのだそうだ。
 アルハンブラは、所々で水を使ったからくりを展開している。シエラ・ネバダという山脈が後ろに控えていて、雪などが供給する水を使えるためである。
        (2003.10.24、グラナダ、アルハンブラ)
セゴビアローマ水道橋。古代ローマ時代、1世紀から2世紀にかけて、トラヤヌス帝の頃、造られたという。山と街の丘をつないでいるが、その長さは728m、一番高いところは29mの高さだという。アーチの数は167とのこと。この前はアソゲホ広場。
 セゴビアの北15kmのフェンフリア連峰から流れ出すアセベダ川の水を街まで引いている。接着剤など使っていないのだそうだ。
           (2003.10.15、スペイン、セゴビア)
アルカサルタイル装飾を手がけた職人さんは、この写真中央のように自分のサイン代りに独特のマークを一部にそれとなく埋め込んでいるのだそうだ。
        (2003.10.22、セビージャ、アルカサル)
セビージャアルカサル乙女のパティオの壁のタイル装飾。職人が腕を競って素晴らしいものを作り上げたのだろう。その中でも、これは私がもっとも好もしく感じた作品。緑と黒と青が白い編み目の中でリズムを刻んでいる。
        (2003.10.22、セビージャ、アルカサル)

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