駿豆文学紀行 2015年春

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2015年4月21日(火)から23日(木)にかけ、静岡県三島市、長泉町、伊豆の国市、伊豆市、沼津市の、主として文学館を訪ねてきました。その行程を追って、以下に感じたことなどを書き付けますが、この地方一帯を、地元では駿豆地方(「すんず」は駿東、伊豆を略したものと思われます)と呼ぶことがありますので、駿豆文学紀行としました。

回ったルートの概要は、三島駅→井上靖記念館→伊豆近代文学館→伊豆長岡泊→葛城山→江川邸→韮山反射炉→若山牧水記念館→妙覚寺→沼津泊→芹沢光治良記念館→大岡信ことば館→三島駅でした。



 
今回訪問した足跡。☆印は、主な訪問先

4月21日(火)


今回もレンタカーでの旅です。三島駅から、真っ先に向かったのは、長泉町にある
井上靖文学館です。愛鷹山に向かって徐々に標高が上がり、やがて、ずっと先まで続く石垣の上にカイズカイブキか何かの植木が並んだ豪勢な一画があって、そこがスルガ銀行スルガ平本部とやら。その先にクレマチスの丘と名付けられた一帯があり、その一角に井上靖文学館はありました。この立地の意味合いは、といえば、振りかえって眺めると井上靖のふるさとともいえる伊豆から沼津一円が見渡せるということでしょうか。でも、実際には、大きな木立が視界を遮っているので、その一円は見えないのです。

企画展示の切り替え中で、一部しか見られないから、本日は無料ですと云われ、1階の常設展示のいくつかを説明してくださいました。ここでの収穫は、しろばんばは、伊豆では「しろ」にアクセントを置いて発音されていることを教えて頂いたこと、
『しろばんば』で洪作がおぬいばあさんと暮らした土蔵の部屋が復元されているのに接したこと、井上靖に「土の絵」という短編小説があることを知ったことと、多くの有名、無名の方々の「忘れがたい井上靖の言葉」という文章を書いて綴じ込まれたファイルにふれたことでした。そのファイルには、椎名誠、岡田武史などという名前がみえました。それぞれユニークな読み方をされていることが覗えます。

そのあと、この日は、三島から修善寺、湯ヶ島経由、昭和の森会館内の
伊豆近代文学博物館に行ってきました。この「中伊豆」に来たのは、かれこれ30年ぶり、久し振りのことです。

30年(としておきますが)の間の違いは、とてつもなく大きく、例えば、三島あたりの風景ですが、道路が立派になって郊外ではドーンと何本も走っています。昔は、国道と云えども、車線は片側一車線が普通だったように記憶します。それに市街地・住宅地が広がっています。多分、水田地帯だったところは、今や建物で埋まっています。

そういう地帯を経て、有料道路(
伊豆中央道、修善寺道路)が山をくり抜いたいくつものトンネルを抜け半島の背骨のように南下しています。助手席の連れ合いは、「伊豆に来た気がしない」といいます。一本200円の自動車道を二本走って、降りたところが修善寺郊外です。そこから先は、下田街道を行く昔ながらのルートで狩野川も見え隠れしています。やがて、湯ヶ島。井上靖が通った湯ヶ島小学校(閉校したとやら)への道が左に分かれたり、聞き慣れた温泉郷や温泉旅館の看板を右左に見て車はくねくねとカーブを切りながら行きます。少しづつ山めいてきて、やや大きなT字路には、天城の猪という看板も見えます。大木に被われた道路脇の石垣は苔むしていたり、天城の国有林の看板などがあって、ようやく伊豆の山中に入ってきた気分が強くなります。右に浄蓮の滝、そして少し行くと昭和の森会館、その中に文学館です。

120名の文学者を紹介しております、などと説明を聞いて、中に入ると、まずは、目下、「伊豆の踊子」の映画の6代にわたる踊り子と学生さんの写真を展示していました。文学館部分の展示室では、井上靖、川端康成が、かなりのウェイトを置いて展示されています。伊豆は湯の国で風光も明媚となれば、作家も多く来ようというものですが、
島崎藤村、田山花袋、蒲原有明、武林武想庵の4人連れ5日間の旅(明治42年2月とのことです)は楽しそうでした。井上靖の写真は、長泉の井上靖館より多いほどです。しかし、何と云っても、会館の裏手に井上家の建物を移設改築して見せているのはなかなかの見ものでした。明治23年の建築だそうですから、大したものです。結構入り組んだ部屋の配置なのですが、ほとんどが縁側に囲まれているという珍しい間取りでした。さすがに、脆くなっていると見え、座敷などには上がらないようにと注意書きがありました。



 旧井上邸(昭和の森会館)

『あすなろ物語』や『しろばんば』、『幼き日のこと』では、湯ヶ島あたりはとても印象深く描かれているので、実際にそれらの舞台に立ち、作品の出来た風土を想うこともしたかったのですが、少々時間が不足でもあり、次の機会にとっておくことにしました。

この日の宿は、
伊豆長岡に戻って、KKR千歳荘でした。小さな盆地に位置していますから、宿の窓からの眺めは三階と云えども良いとはいえません。大きな座卓などが入った8畳間はやや狭く感じましたが、卓球を少しやって温泉に入り、食事はさほど多くなく美味で、宿銭も手頃で、総体、まずまず結構な宿でした。

4月22日(水)

宿で、今現在(8時半)、富士山は見えません、という情報が届いています、と聞いたものの、雲があるとはいえまずまずの天気なので、
葛城山にロープウェイで登りました。土地のことを理解するのに、高いところから眺めるのが第一、という宮本常一かどなたかの言葉に教えられてのいつもの行動です。

ロープウェイが動くにつれて、下界が開けてきて、長岡の温泉街がそれほど広くない小さな盆地なのがわかります。
狩野川が山裾を縫ってうねっているのも分かります。韮山や大仁方面も見えてきます。修善寺方面らしき方向は山というか、丘というか、そんな連なりに埋もれています。天城山らしきべったら三角の峰が見えます。真下を見るとミカン畑が小さな谷間にあります。



伊豆長岡温泉は小さな盆地。小山の向こうに江川邸や反射炉がある

ロープウェイは、おおまかには東斜面を登ります。富士山は北側、駿河湾は西側ですから、ロープウェイからは見えません。しかし、降りてまず目が向くのが
富士山。この日この時間は、富士山にたなびく雲がかかるとはいえ、ほぼ山頂まで春らしい薄霞の中に見えています。暫し眺めてから、土産物屋や食堂の間を抜け山頂の遊歩道を展望台に向かいます。ここからは、ぐるりが見渡せ、愛鷹山の向こうの富士、その手前の低山の並びとその間に散在する集落、時に大きな工場なども見え、三津の内浦湾の一部がそれら低山の間にチョット見えて、湾入していることをうかがわせます。駿河湾には、淡島も浮かび、その先には小さくヨットの白い帆が見えています。「吹き出物みたい」とは、淡島の端に張り付いたベージュ色のホテルを見て連れ合いの言ったこと。



  葛城山からの富士

振りかえって東側をみると、熱海、伊東方面を遮る山脈のこちら側斜面。ドームが見えるのは、自転車パークの施設か。右に視線を動かすと、天城山を最高地点にして稜線が徐々に下がり、天城峠を底にして今度は達磨山などの高みに向け稜線が上がって行きます。そして、
駿河湾に戻って、その向こうには、清水、興津、由比、蒲原を霞の陰に見て、富士、沼津とはっきり見えてきます。これで一周したことになります。

この山頂は、パノラマパークとやら名前が付いていて、何カ所かの展望台を含め遊歩道が入り乱れて敷かれています。ざっと歩いてみて、下山することに。

次は、
江川太郎左衛門の屋敷です。奇麗に整備された屋敷では、ボランティア・ガイドの皆さんが説明をしてくれます。私たちは、裏口に案内されて、天井がばか高く広い「土間」から始まって、おばさんガイドの詳しい説明を聞きながら主立った部屋を見て歩きました。

二、三の部屋では、使っていた小道具などが陳列されています。壁には、家系図もあります。
江川英龍、号は坦庵が有名ですが、そこからかなり遡ったところに友治という名が見えました。私の高校の大先輩で、同職の方に江川友治さんがおりましたので、ガイドさんにその話をして、この江川家との関係をきいてみましたが、ご存じないとのこと。そういわれても、壁に貼られた坦庵の肖像画の面長なお顔とぎょろりとした目は、先輩のそれとよく似ているのです。

この日は、谷文晁の筆による
尚歯会の集まりを描いた画軸が復元されたということで特別に掲げられていました。数名のメンバーが同じ白髭顔、同じ中国風衣装で集り笑顔で語っている絵です。向かって左に裏方らしきひとりが違う装束で加わっています。この絵が掲げられた部屋の隣には、英龍を慕う人々が集まって勉強し合った部屋も公開されています。開明代官の姿が偲ばれる事跡です。



  江川邸の玄関より表門を望む

裏には、当代の江川さんの家があって、生活の匂いが伝わってきておりました。庭には、肥秣庫などのお蔵が3棟ならび、肥秣庫の入り口の屋根は、いわゆる瓦葺きではなく伊豆石葺きでした。裏門からは、正面に富士山が見え、坦庵もご家族も多数おられた使用人も、朝な夕なに霊峰を眺めて暮らしておられた様子が偲ばれました。

車で数分、南下すると
韮山反射炉です。子どもの頃から写真で見たり聞いたりしていて、遠望したような記憶もあるのですが、間近に見たのは今回が初めてです。ようやく来られた、という気がします。

ここも、ボランティア・ガイドの皆さんが説明してくれます。その説明を聞きながら反射炉の仕組み、つまり、なぜ反射炉と呼ぶのか、が分かりました。

目立つ塔の下に石炭を燃やす釜がありますが、その石炭の熱が鉱石をおいた一個所に反射して集まるようにできているからなのです。その反射熱により千数百度の熱がえられて鉄鉱石が溶解し、鉄を取り出すことができるようになるのです。目立つ塔は、太陽熱を反射するのではなく、単なる煙突なのでした。



  韮山反射炉

煙突は煉瓦造りで、縦横斜めに鉄材を張って、崩れないように補強しているのだそうです。先の地震の後で斜めの鉄材を新たに張ったとのこと。

この反射炉は、
世界遺産への登録をめざし、北九州、山口などの施設とあわせて申請中ということでした。私どもは、富岡製糸場がやはり登録申請中に訪問し、その後、登録になったという経験をしています。だから、ここもきっと登録されるよ、と言って、ガイドさんやお客さんと笑ってきました。(実際に、この半月ほど後に、ユネスコの諮問機関が世界遺産登録を勧告し、2ヶ月半後の7月5日には、「明治日本の産業革命遺産」の世界文化遺産への登録を決定しました)。

江川邸と反射炉を結びつけるもののひとつに大砲作りがあります。江川英龍は、当時の世界情勢を深く知り、その知識の上で国防を担う仕事をしました。その仕事は多岐にわたりますが、高性能の大砲を作り、品川沖に英龍が作った
お台場にそれらを据え付けるという仕事が予定されていました。大砲作りに、反射炉は不可欠でした。反射炉作りは、英龍晩年の仕事で、その完成を見ずになくなっているのですが、完成した反射炉では、大砲が作られました。現場での説明では、鉄の塊に過ぎない砲身に弾道をくり抜くのに、水車の休みなく働く力を使い一ヶ月も掛けてくり抜いた、水車は、その仕事を嫌がることなく続けた、と物語ってくれました。その水車を回した小川が反射炉から2、30mほど離れたところを流れていますが、世界遺産には、それをも含めて申請中とのことでした。

昼食に蕎麦でも食おうと、ガイドさんに聞いたところ、結局、江川邸のそばの
蕎麦屋「代官屋敷」が無難だろう、ということになり車で戻りました。お蕎麦をいただいていると、中国語を話す団体が入ってきました。行動や言葉遣いを拝見すると、中国本土の人たちと何となく違うので、帰り際にレジのおじさんに聞くと、台湾から、とのこと。静岡空港に降りて、富士山などを見て伊豆半島を南下し、下田から東京に行き羽田から帰る、というコースが出来ているのだそうです。

午後は、長岡から狩野川放水路沿いにトンネルを抜けたりして駿河湾方面に向かいました。葛城山からチラリと見えた
内浦湾にでると、海岸沿いに沼津に向かう道です。ヨットがたくさん並んだ浜辺を通り、商店や人家の並ぶ街道をゆくとやがて、今晩泊まるKKR沼津はまゆうのまえをすり抜けます。カーナビゲーションの示すままに狩野川を渡り、沼津港のそばを抜けて、千本松原に向かいます。

閑静な住宅街に曲がってしばらくすると、左に
若山牧水記念館です。駐車場を抜け少し上がると玄関があり、入ると受付のおじさんが出迎えてくれました。略年譜などをもらって早速展示を見て行きます。喜志子夫人の展示が眼に入ります。彼女も有名な歌人で牧水との共著の歌集『白梅集』を出しています。牧水は、別の展示によりますと、喜志子夫人と家庭を持つまでに、三人の女性を好きになり、いろいろな形で別れに至っています。



 若山牧水記念館の玄関

牧水は、宮崎県延岡の生まれですが、東京で活躍していた頃、旅で訪れた沼津が気に入り、やがて香貫山の麓に家を借り、後に
千本松原の地に自宅を建て、以後、そこに住まいました。その頃は、全国に多くのお弟子もいて、講演などで入るお金も多かったのでしょう、借金も解消したらしく、大きな自宅を建てました(大正9、1920年)。記念館には、その模型や間取り図があり、書斎が復元されています。書斎の窓からは、すぐ外に太い松の木が見えていました。

昭和3年に胃腸と肝臓を悪くして亡くなりますが、お酒が死を早めたと思われます。43才でした。千本松原の近くに墓所があるとのことですが、松原内にある歌碑は、「
幾山河・・・・」で、どっしりとした石を削った面にその歌は書かれていました。

おなじ千本松原の松林には、いろいろな石碑があるのですが、井上靖の碑もあります。その碑のユニークなところは、その前に広がる磨き御影石の表面に、たくさんの作品名が刻まれていることです。当然そこにも名前がある
『あすなろ物語』や『しろばんば』には、千本松原や狩野川など沼津のあちこちが登場します。靖が、中学時代に下宿した妙覚寺が、そこから遠くない市街地にあるので車を向けました。



  井上靖が中学時代下宿した妙覚寺の山門

すっかり都会らしくなった市街地から、それら小説の舞台をすぐには再現できませんが、妙覚寺もそんな市街地にありました。徒歩でぐるっと回ってみましたが、周りをぶ厚い屋根付き塀に囲まれ、写真の通り正門は閉ざされ、少し離れて、こちらからどうぞという具合に通用門が開いていました。小説の場面も雪枝も脳裏から出てきてこのあたりを動くことは難しく、頭のなかで小説の場面を断片的に思い出すだけでした。数十メートル離れた狩野川の堤はコンクリートで身長より高く築かれ、階段を上がらなければ水面が見えません。それに、護岸工事らしい作業が忙しく進められていました。

しかし、帰宅して気がついたのですが、この妙覚寺から狩野川までの数十メートルの距離感覚、堤防から眺める香貫山の姿(このページの末尾に写真を掲げました)は、『あすなろ物語』、『夏草冬涛』などに描かれた通りなのです。眼をつぶってみると堤防に生えた松の木までもが瞼に浮かんできます。現代化された要素をとりさることが頭のなかでできれば、作品の描写がそのまま再現可能なのです。つまり、井上の描写はリアルなのです。

宿の
KKR沼津はまゆうでは、さっそく温泉に浸り、夕飯をいただき早めに休みました。中国の団体が同宿で、夕飯前にロビーで会議をしていたのには驚かされました。

4月23日(木)

眼の前の海岸に出て駿河湾を眺め、それから今日の行程に出発です。

芹沢光治良記念館が我入道の海近い住宅街にあります。

我入道は、かつてはまさに漁村そのものだったと何かで読んだ記憶があります。しかし、今、表通りを通っただけでは、その様子を覗えません。狩野川沿いを歩いたり、我入道の渡しを船で行ったりすれば、少しは当時を偲ぶことが出来るのでしょうか。



 我入道の表通り

光治良の子供時代には、漁村が広がっていただけでなく、近隣の牛臥山、その更に奥には、沼津市民に親しまれている香貫山があって、その現在の姿を見ただけでも、光治良が言っているとおり「豊かな自然、美しい風物、明るい光が、私の性格をつくっているばかりでなく、私の文学の基本をなしている」ことが理解できます。

彼の作品は、私はほとんど全くといって良いほどに読んでいないのですが、連れは『人間の運命』を読んでいます。芹沢記念館で、展示を見て知ったことの一つは、彼が特定の宗教に帰依していないということです。読んでいないままに出来上がっている芹沢のイメージに、どうして宗教の匂いがあるかといえば、代表作の『人間の運命』というタイトルを踏まえて、晩年のいわゆる~シリーズのタイトル『神の微笑』『神の慈愛』『神の計画』を見ていることによると思われます。しかし、彼は、父母が天理教に一身を捧げるような生き方をしており、彼自身、ヨーロッパ留学を機にキリスト教につき学び、プロテスタントを好まずカトリックに傾いたことがあり、また、イスラム教についても勉強をしているなど、宗教を深く勉強していることどまりなのです。彼の到達点は、大自然そのものが神であり、それとの関係で生と死、神と人間などのテーマを追究し続けたということのようです。更に詳しく、かつ具体的には、彼の作品を読まなければ理解できないのでしょう。

実は、前の日、宿に帰る前に、光治良や井上靖も通った
沼津中学、現沼津東高を訪ねて、ふたりの文学碑に接しようと思ったのですが、カーナビゲーションは、移転新築した東校に車を連れて行ってしまったのです。そこで、正門前にいた生徒に、ここにいつ移転したのか、旧東校の跡は何になっているのか、と聴いてみたら、いずれも、知りません、という答しか返ってきませんでした。この答えにガッカリしていると、連れは、だって今は広域学区になって遠くから来ているから分からないんだよ、きっと、という。そんなものかな、と思いつつ宿に向かうこととしました。

それは昨日のこと、今朝は、光治良記念館を後にして香貫山の麓を通ってから、調べて
沼津市民文化センターのナビをセットして行って見ました。たくさんの大木に囲まれた茶色の建物が文化センターで、市民が三々五々出入りしていました。こんなに環境が良いところから、東校が郊外に移設されたのには何かワケがありそうですが、よくわかりません。グランドと文化センターの建物との境の一角、東校の校歌の碑を中にして、左右にふたりの碑は立っていました。



  井上靖(左)と芹沢光治良(右)の碑(旧沼津中学校庭)

井上靖「思うどち 遊び惚けぬ そのかみの 香貫 我入道 みなとまち 夏は夏草 冬は冬濤」

「わが命果て/天に昇るとも/魂の故里パリ・東京に/舞いもどるたび/命の故里沼津に遊びて/市民を見守り幸を祈らん/九十一翁 光治良」

そこを辞して三島駅に戻ります。レンタカーを返し、隣接したビルにある「
大岡信ことば館」。一階の展示室に大岡信の著書が並んでいますが、読むより速く書いていると思えるほどなので、本当にたくさんの本が並んでいます。二階に上がると、広々としたフロアに展示物が見えます。今回の企画展示は、「『折々のうた』をおもちかえり展」。

壁に、月別に
『折々のうた』のコラムが一枚一枚張り出されていて、その脇に新聞紙上での実物大でしょうか、コラムのカードが小箱に入れられています。つまり、気に入ったテーマのものを取りだしてください、それを、中央にある作業テーブルで、お好きな体裁の冊子にしてお持ち帰りください、というわけです。私どもは、それぞれ気に入ったものをとって、折々式の小冊子にしていただいてきました。

たとえば、
「山のあなたの空遠く/『幸』住むと人のいふ」。
「にこやかに酒煮ることが女らしきつとめかわれにさびしき夕ぐれ 若山喜志子」



「折々のうた」をおもちかえり展のカード例(同展HPより)

沼津駅の売店で駅弁を買い、こだまに乗り込みました。東京駅からは、上野東京ラインのグリーン車両に乗って上野乗り換えなしで帰ってきました。夕餉は、回転寿司ですませました。久し振りの温泉付き文学紀行でした。



妙覚寺傍の狩野川から香貫山を望む、井上靖が眺めた頃は工場などはなかったわけで・・・。

今回、駿豆文学紀行をしてみて思ったことがあります。すなわち、この地方は、同じ静岡県であっても、駿河、遠州に比べ著名な文学者を多く輩出しているということです。文学者を集める力も持っています。これが何によるかは、正確には分からないところですが、芹沢光治良が言っていたように自然、風土が与っているのでしょう。それは、実際にこの地を回って感じたことでもありましたが、具体的にどのようなメカニズムなのか、今後の課題です。

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