対談「極光のかげに」

「世界」(2007年6月号、「世代を超えて語り継ぎたい戦争文学」)要約
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今回の対談は、高杉一郎を扱っているので、私としてはどうしても熟読せねばおれない気持になりました。彼の娘さんが高校同期であることも少し身近に感じるところですが、それはさておき、彼の作品のすばらしさをずっと感じていたからです。学者らしい冷静な透徹した眼は、世の中、ものごとの見方はこうあるべきだ、と教えてくれます。今回の対談でもそのことが触れられています。以下の下手な要約は、ご用とお急ぎの方用。関心を持っていただけた方には、それで終わりとせず、是非、原文(対談も高杉の著作も)にあたられることをお薦めしたいです。

ソ連への公平な目
佐高 澤地さんが『極光のかげに』を選ばれた理由は?
澤地 シベリア抑留記はたくさん出ているが、高杉さんの本はソ連を冷静に公平に見ようとしている。
佐高 日ソ中立条約を侵した、侵攻したソ連軍が日本女性にひどいことをしたというのが戦後のソ連観の原型ですね。
澤地 「ロシア、野蛮国」と歌ってばかにしていた相手からひどい目にあったのだから二重、三重に憎い。「ロシアはこんなにひどい」と書いたほうが戦後日本ではうけがよかった。しかし、高杉さんの本では、ロシア市民はそれほど嫌うべき存在じゃなくて人間らしく温かでもあったことなどがわかる。『極光のかげに』は文学性が高いと同時に誠実に慎重に書いている名著だと思う。

パンが多ければいい政治
佐高
 トルストイ、ドストエフスキーなどは日本人には好まれた作家だが、シベリア抑留は、それを言えない雰囲気を作り出した。
澤地 シベリア帰りということを言いにくい。ソ連ではおぼえが良くなるよう「丹頂鶴」のように、一度は頭だけアカになる。日本海を渡る間に色が落ちてしまう。それでも祖国は拒み就職できない。
 「徳田要請問題」というのがあった。ソビエトの捕虜になってる日本人が「よき民主主義者」になるまで日本に帰すなと徳田球一がソ連に要請したか否か。国会で大騒ぎになる。
佐高 魚住昭『沈黙のファイル』によると、「日本新聞」編集長だったコワレンコが、日本人は「集団主義で勤勉な反面、権力に弱い。それが日本人の民族的特性だ。・・・私は日本人から『はい、そうですか』の返事以外聞いたことがない」と言っています。ロシアにだってドイツにだってそういう人はいるだろう、それを全部ひっくるめて言うことに何か意味があるのか、と静かに問いかけているのが『極光のかげに』です。
澤地 アカだと言われるからと沈黙していた人もいるけれど、そうでない人もいた。たとえば彫刻家の佐藤忠良さんは「誰かがやらなきゃならないことだろうと思った。日本はあんなばかな戦争をしたんだから、その役割が自分に来たのだと思っていた」と淡々と言われた。
佐高 高杉さんは、ロシアの個々人にはすごく温かい。ロシアの民衆のひとりが、パンが多くなったらいい政治だ、と言ったりする。今のイラクと同じですよね。
澤地 本音というのはそういうものです。フセイン自体はどうでもいい。
佐高 戦争というのは戦争が終わっても終わらないのですね。

ソ連将校が食べ物をねだる
澤地
 ジュネーブ条約では将校は特別の待遇を受けることになっている。収容所の所長が「国際法?そんなものはわれわれの国にはない」と言う。その条約を批准しなかったのはソ連と日本です。高杉さんは国際条約などにすごく詳しかった。
佐高 それと、不正に対して抵抗します。だから、この人は社会主義にある種の希望を持っていることがわかる。暗い中にも光があるだろう、と。
澤地 改造社の編集者ですから。が、『往きて帰りし兵の記憶』では、あのときに自分は徹底して書いていなかった、と反省しています。それは、ソ連が瓦解してからのことだと思います。
佐高 すごく冷静です。それが人をうつ。これほど冷静に観察し、書くことの出来る知性の持ち主を私たちが持ったということはある種の誇りですね。
澤地 みんなひもじい中で高杉さんは胃が悪いのでコウリャンの粥が食べられない。それを見ていたソ連の将校が「もし君が食べないなら僕にくれ。僕らがドイツのラーゲリにいたときは、日に500グラムのパンと水のようなスープだけだった、それに鞭だった」という。これは痛烈なことだと思う。考えるとロシア軍はドイツとの戦いの初期に経験している。日本は初めて捕虜生活を経験したのです。

プーシキンのために
佐高
 皮肉なことだが、軍国主義的なことをいう人より、彼のように冷静な者のほうが嫌疑をかけられる。
澤地 ソ連にとっては、ロシア語が出来る人間は諜報機関で働いていたという判断になった。高杉さんは八杉貞利『露語辞典』を持ってロシアに入った。インテリのすごさです。
佐高 「君、プーシキンを読んだことがある?」
「『エウゲニイ・オネーギン』は、僕の好きな本です」
背の低い男は、黙って手をさしのべると、私の手をかたく握った。・・・十ルーブリ紙幣を二枚取り出すと、私にわたそうとした。」
「僕に?何のために?」
「プーシキンのために。それで煙草を買いたまえ」
澤地 私がボルガ下りをしたときの経験ですが、シベリア送りになったドイツ系ロシア人が、ソ連が崩壊した直後、ドイツに帰れると聞いてボルガの畔まで来た。統一ドイツは東独の人たちのことで手一杯。そこで見捨てられた。「すべて狡猾なスターリンの芝居さ」と言っていました。こういう話も『極光のかげに』を読み返してみて、強烈に思いあたることがいろいろあった。

エスペランティストとして
佐高
 高杉さんはエスペランティストでもありますね。
澤地 そうです。長谷川テル『戦う中国で』をエスペラント語から翻訳しました。戦後の日本で高杉さんの果たした役割は大きいです。高杉さんの翻訳書を仲立ちとしてエロシェンコに行けるし、アグネス・スメドレーへ行けるし、中国革命にも行ける。クロポトキンの優れた訳者でもあります。
佐高 ザメンホフは、アントン・チェーホフと同じ頃、モスクワ大学医学部の学生だった。とするとチェーホフとも重なってくる。エロシェンコが魯迅とつながります。
澤地 日本陸軍はずっとロシアが仮想敵国だった。関東大震災の時にもソ連から救援物資を積んだ船が横浜に来たのですが「お引き取り下さい」と言って帰しちゃう。それほど硬直した国だった。冷戦も終わったし、アカ嫌いもロシアへの怨みも変わっていいはずなのになかなかそうならない。いまも『極光のかげに』は大切な本です。
 ドイツの捕虜は団結して要求すれば通ることもあると知っていたそうです。日本人は全部バラバラにされちゃう。そこが違うようです。日本は市民社会の歴史がないから、個の尊厳なんていうものはなかったのだから。

ジャーナリストとしての高杉
佐高
 『極光のかげに』をかいたことによって、高杉さんは左からも批判されるでしょう。
澤地 ソビエト・ロシアは天国だと、多くの人が思っていたときですから。研究会のようなところに呼ばれて罵倒されたという。
 右からも左からも叩かれ、両方から殴られてヨロヨロしても、それでも自分の考えていることを守れるというのが、本当のインテリであり志ある人だと思う。
 高杉さんは実に平均的なきちんとした常識を持っていて、間口が広くて、勉強していて、物事を見る眼を持っている人。改造社の編集者として、自由を守らなければいけないという姿勢があった人だと思う。卓越した知性の人、かつジャーナリストだったと思う。
佐高 どういう状況にあっても、最低限言うべきことは言う。
澤地 岩波文庫版「あとがき」に、
「四十年まえ、私を政治的つるしあげの席に座らせることになったこの本がそのままの形で、一九二七年以来の『岩波文庫』のリストのなかに加えられると聞いて、私はたいへんうれしい」と書いています。

『極光のかげに』(岩波文庫)は2007年5月現在品切れとのこと。是非、再版してほしいです。

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