種子島銃と島娘の物語

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種子島に「鉄砲館」と呼ばれる博物館があります。そこの解説によると、鉄砲が伝わったとき、実は台風でポルトガル船が被害を受け修理に5ヶ月も滞在したとのこと。島の殿様は、鉄砲を2丁買い取り、それを見本に、刀鍛冶に鉄砲を作らせた。しかし、砲尻のネジ部分がどうしても出来ない。そのうちに5ヶ月が経ち、修理の出来た船は旅立っていった。しかし、ポルトガル船は、今度は鉄砲鍛冶を連れて訪れた。その時、中に立ってやりとりを円滑に進めるのに、船員と仲が良くなった若狭という娘が大きな役割を果たし、初めての和製鉄砲が完成した。若狭は、船とともに島を去っていった。それから、戦国時代は、鉄砲の活躍する時代に移っていったのでした。

以上の文章を、樹下談叢に書きましたら、「若狭という娘さんのその後に興味があります」という注文(?)を頂戴しました。そこで、瞑目して、かつてポルトガルに旅行して知ったことなどとむりやり結びつけて想像をたくましくしてみました。二つの物語が浮かびましたので、旅人の記にもそれらを書き付けておこうと思います。

リスボンに着いた若狭は、家庭を持ちかわいらしい坊やも加わりました。夫は、アジア航路に出てしまうと2,3年は帰りません。若狭は、寂しくて悲しくて、夫の帰りをひたすら待ち続けました。ある日、夫がオビドス(リスボンの北、数十キロの漁村)に、別の女と暮らしている、という噂が耳に入ります。若狭は、嘆き悲しんだすえ、ひとり、奥地の町エボラに移り坊やと共に新たな生活をはじめます。後に、天正遣欧使節がエボラを訪れたとき、彼らはその話を聞き、若狭の墓に花を手向け祈りを捧げました。

これは、良くある筋にそって拵えたような感じ。もうひとつは、あまりストーリーがまとまりませんが、

リスボンでふたりは、ジパング貿易などで稼いだ資金をもとに、オリエンタル物産商会をおこしました。東洋人やアフリカ人、アラブ人など、いろんな人種と交わりつつ、ボロ儲けは出来ないものの、そこそこ愉快な商売をしていました。若狭は、その商会の裏方として、おとづれる商売人にも大人気でした。ところが、ハプスブルグ帝国のアウグスブルグの商人が、大きな店を王様の庇護のもとで展開するようになると、かれらの商売は徐々に廃れ、とうとう立ちゆかなくなってしまいました。夫は、焦り酒が過ぎ、身体をこわしてしまいます。それを立ち直らせたのは若狭でした。そして、ほそぼそとした商いをつづけ幸せな一生をその地で終わりました。

若狭がポルトガル船に乗って種子島を離れて後の音沙汰はどこかに伝わっているのでしょうか?

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