歴史ノートより、竹島および日韓協約(資料)

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竹島:

隠岐群島の北西一五七キロの日本海に浮ぶ二つの岩石島。五箇村に属する。江戸期は松(まつ)島とよばれ、当時竹島といったのは現鬱陵(うつりよう)島のこと。「隠州視聴合紀」に「戌亥間行二日有松島、又一日程有竹島」、安政六年(一八五九)の「隠岐古記集」には「亥の方四十余里にして松島あり、周り一里程にして生木なき岩島といふ、又西の方七十余里にして竹島あり、古より是を磯竹島といふ、竹木繁茂して大島の由」とある。竹島(鬱陵島)へは元和四年(一六一八)伯耆国米子の大谷甚吉と村川市兵衛が、幕府から竹島渡海免許を受けて隠岐を経由して出漁しているので、竹島往復を通じて松島があることは知られていたものと思われる。
この竹島は浜田藩の竹島密貿易事件で改めて渡海禁止令が出されたが、のち竹島・松島の呼称には混乱があったようである。日本海軍水路部編纂の「水路誌」に「鬱陵島一名松島」とあり、松島の列岩は嘉永二年(一八四九)フランス船リアンコールト号が初めて発見、船名よりリアンコール列岩、略してリヤンコ島と命名したとある。明治維新後、島根県人の戸田敬義らの竹島開発出願が相次いだため、外務省は明治一三年(一八八〇)軍艦を竹島に派遣して調査、朝鮮国の領土鬱陵島であることを確認した。しかし当時多数の日本人が同島で伐木・漁採に従事しており、朝鮮政府の抗議を受けて在島の日本人二五四名を帰国させるが、内務卿通達には「日本称松島、一名竹島、朝鮮称鬱陵島」とある(「日本外交文書」第一四巻・同一六巻)。同二三年の日朝両国間で締結した通漁規則により日本漁民の朝鮮沿海への出漁が認められ、隠岐から出漁する漁民が増加、鳥取県境港は朝鮮貿易の開港場に指定されていたが、同三〇年の貿易額のほとんどが鬱陵島関係の輸出入であった。同三六年西郷(さいごう)町の中井養三郎らはリヤンコ島にアザラシ漁のため渡航、翌三七年「リヤンコ島領土編入並に貸下願」を内務・外務・農商務三大臣に提出、これによりリヤンコ島が日本領土である確証がないことがわかり、政府は閣議で日本領土編入を決定、竹島と命名することとした。同三八年二月二二日の島根県告示第四〇号は「爾今、本県所属、島司ノ所管ト定メラル」と公示、同年五月一七日付で官有地に編入した。穏地(おち)郡五箇村会は昭和一四年(一九三九)四月二四日竹島を五箇村に編入することを決議した。
昭和二一年一月二九日付連合軍最高司令官覚書で、竹島は日本の行政管轄権外にある地域と指定されたが、サンフランシスコ平和条約締結後の昭和二七年一月一七日島根県は政府に対して米軍爆撃演習地区指定解除と漁業禁止解除を要望したところ、翌一八日に大韓民国(韓国)李承晩大統領が海洋主権宣言を発表して、日本海に領海を一方的に線引きして竹島を韓国領に含めてしまった。日本政府は同二八日付口上書で抗議、六月二七日には海上保安官二五名・島根県警察官三名・島根県職員二名が竹島に上陸し、島根県の標柱を立てて、同島にいた六名の韓国人の退去を勧告した。しかしこの標柱は韓国側に撤去され、七月二二日には海上保安部の巡視船が発砲被弾する事件も発生した。同二九年日本政府は竹島領有権問題を国際司法裁判所に提訴することを決定するが、韓国側は応訴を拒否した。さらに日本政府は日韓国交正常化の交渉を進めるにあたり、竹島問題の解決なくして国交正常化はありえないとする態度で臨んだが、韓国側は国交正常化後に外交的に解決すべき問題として、日韓会談では取上げさせないままで推移し、紛争処理事項として先送りされた。
これに対して島根県と島根県議会は、日韓基本条約調印後の昭和四〇年以来、日本政府に「竹島の領土権早期確保のため万全の措置を講ぜられるよう」に要望を繰返すとともに、同五二年からは島根県竹島問題解決促進協議会を設立して返還要求運動を続けている。竹島は日本地図には掲載されることがほとんどないが、韓国や朝鮮民主主義人民共和国の地図には独島(どくと)として必ず掲載され、慶尚北道鬱陵郡鬱陵邑南面洞一番地として住民を居住させている。韓国の高校国史教科書には次のように記述する。独島は鬱陵島に属する島として三国時代からわが国の領土だった。粛宗(在位一六七四―一七二〇)の時代には、東莱の漁民安竜福が鬱陵島に不法侵入してきた日本人漁夫を追出したのち日本へ行き、鬱陵島と独島はわが国の領土であると確認させたこともあった。しかしその後も日本の漁民たちが、しばしばこの地を侵犯したので、政府はこのような事実について日本に抗議する(一八八一年)とともに、直ちに鬱陵島の開拓を決定、移住民を送り官吏を派遣した。その後政府は鬱陵島を郡に昇格させ、独島も管轄させた(一九〇〇年)。独島は鬱陵島の住民によって盛んに利用された。

”たけしま【竹島】島根県:隠岐郡/五箇村”, 日本歴史地名大系, ジャパンナレッジ (オンラインデータベース), 入手先<http://www.japanknowledge.com>, (参照 2012-12-23)


日韓協約:

日韓協約には明治四十三年(一九一〇)八月二十二日の韓国併合に至るまでの間に、第一次から第三次まであり、韓国の主権はそれによって次第に侵食された。第一次日韓協約は日露戦争中の明治三十七年八月二十二日に、韓国外部大臣署理尹致昊と駐韓日本公使林権助との間で締結された外国人顧問傭聘にかんする協約である。その前の五月三十一日、日本政府は防備・外政・財政・交通・通信・拓殖にかんする六項目の「対韓施設綱領」を閣議決定し、六月十一日に天皇の裁可を得ている。その内容は明治三十七年二月二十三日に締結された日韓議定書のなかで、韓国政府が日本政府の「忠告」による「施設ノ改善」を義務づけられた第一条を具体化したものである。「対韓施設綱領」の外政にかんする第二項は「適当ナル最近ノ機会ニ於テ韓国政府ヲシテ外国トノ条約締結其他重要ナル外交案件ノ処理ニ関シテハ予メ帝国政府ノ同意ヲ要スル旨ヲ約セシムルヲ期ス」となっており、また財政にかんする第三項は「可成速ニ我邦人中ヨリ適当ノ顧問官ヲ入レ差当リテハ少ナクトモ現今ヨリ以上財政ノ紊乱ニ至ルヲ防キ追テ徴税法ノ改良貨幣制度ノ改革等ニ着手シ遂ニ韓国財務ノ実権ヲ我掌中ニ収ムルヲ期スヘシ」となっている。要するに第一次日韓協約では韓国政府に対して、日本政府が推薦する財政および外交顧問の傭聘を義務づけたのである。その結果日本政府は、財政顧問目賀田種太郎、外交顧問スチーブンス(親日的アメリカ人)をつうじて、韓国政府の財政および外交をその監督下においた。日本政府はこのほかにも、なしくずし的に宮内府(加藤増雄)・軍部(野津鎮武)・警察(丸山重俊)の日本人顧問を配置して「顧問政治」を実施した。日露戦争で日本が勝利し、同三十八年九月五日にポーツマス条約が調印された。しかし戦後も長谷川好道大将を司令官とする韓国駐箚軍が駐留しつづけた。これを背景にして十一月九日、伊藤博文は韓国皇室慰問使という肩書で、十月二十七日に閣議決定した保護協約案を持って渡韓した。伊藤は十一月十七日に韓国政府閣僚の御前会議を開かせ、長谷川軍司令官を帯同して参加し、はげしく協約案の調印を迫った。十八日午前一時、八人の閣僚のうち、参政(総理)韓圭ら三人の閣僚の反対にもかかわらず、第二次日韓協約(乙巳保護条約)の調印を強制した。いわゆる韓国保護条約である。これに賛成した李完用(学部大臣)をはじめとする五人の閣僚を、朝鮮では乙巳五賊という。五ヵ条からなる第二次日韓協約は、第一条では韓国外交権の剥奪を、第三条では日本政府を代表する統監を置いて韓国の外交事項を管理し、保護政治を実施することを規定した。同年十二月二十一日に日本政府は「統監府及理事庁官制」を公布して、伊藤博文を統監とする統監府をソウルに設置し、各開港場および必要と認める地域に理事庁を設置した。官制によれば統監には外交事項の管理にとどまらず、韓国駐箚軍司令官に兵力の使用を命じ、韓国政府に傭聘されている日本人官吏を監督する広汎な権限が与えられている。第二次日韓協約は、韓国と外交関係をもつ諸外国、特にその主要国である米・英・露の承認が前提されねばならない。アメリカは同三十八年七月二十九日の桂・タフト協定、イギリスは同年八月十二日の第二次日英同盟、敗戦国ロシアはポーツマス条約において、それぞれ韓国に対する日本の指導、監理および保護を承認した。第二次日韓協約とそれによる保護政治に反対して韓国民衆は反日義兵運動をはじめとする各種形態の国権回復運動を起した。しかし、国際的孤立のなかの抵抗運動は日本軍・憲兵・警察による弾圧によってこれを阻止することはできなかった。同四十年六月からオランダのヘーグで第二回万国平和会議が開かれた。ハルバート(在韓アメリカ人)の助言と周旋をうけた皇帝高宗は三人の密使を派遣して、列強による日本侵略の阻止を訴えようとしたが、失敗した。その通報をうけた統監伊藤博文は、韓国政府の総理李完用に対して「日本は韓国に対し直ちに戦を宣するに十分なる理由を有す、貴下宜しく首相たる責任を以て韓皇に奏聞して処決を促すべし」(『伊藤博文伝』下)と、皇帝高宗の引責退位を強制した。高宗は李完用および農商工部大臣宋秉(親日団体一進会から入閣)の策動によって七月二十日に退位し、八月二十七日純宗が即位した。これより先、七月十八日外務大臣林董が、「保護権拡大」のための新協約案をもって渡韓し、七月二十四日に七ヵ条からなる第三次日韓協約を締結した。この協約によって統監は、韓国政府の施設改善に対する指導、法令の制定および行政処分に対する承認、韓国高等官吏の任免に対する同意、統監が推薦する日本人官吏を韓国官吏として任命すること、統監の同意なしに外国人を傭聘しないことなど、韓国政府のうえに君臨する専制王的地位を確保した。それに伴って第一次日韓協約による日本人顧問は廃止され、韓国政府の各部(省)に日本人次官および多数の官吏を、韓国官吏として任命し、「次官政治」を始めた。各部の日本人次官は次のとおりである。宮内府次官―鶴原定吉、内部次官―木内重四郎、農商工部次官―岡喜七郎、学部次官―俵孫一、度支部(財政)次官―荒井賢太郎、法部次官―倉富勇三郎、警視総監―丸山重俊、警務局長―松井茂、総税務司署理―永浜盛三。さらに伊藤博文と李完用との秘密覚書によって、韓国軍の解散を決定した。八月一日から始まった韓国軍の解散に抵抗して、ソウル侍衛隊第一連隊第一大隊、第二連隊第一大隊をはじめ、原州鎮衛隊、水原鎮衛隊江華島分遣隊が蜂起し、その大多数が武器や弾薬を奪取して反日義兵運動に合流した。以上みてきたように明治三十七年八月の第一次協約では顧問政治、三十八年十一月の第二次協約では外交権の剥奪と保護政治、四十年七月の第三次協約では次官政治と軍隊の解散というように、韓国の主権は名目だけとなり、それにかわって韓国統監が実質的な支配者となった。韓国併合を完成するための日本政府の方針は、四十二年四月十日の三首脳秘密会議(首相桂太郎・外相小村寿太郎・韓国統監伊藤博文)において決定され、七月六日に「韓国併合ニ関スル件」を閣議決定し、同日天皇の裁可をうけた。三首脳秘密会議に同席した外務省政務局長倉知鉄吉は、「語調の余り過激ならざる文字」として併合という用語を使ったが、実質的には「韓国が全然廃滅に帰して帝国領土の一部となるの意」と述べている。→韓国併合(かんこくへいごう),→日韓議定書(にっかんぎていしょ)


[参考文献]
姜在彦『朝鮮近代史』(『平凡社選書』九〇)、森山茂徳『近代日韓関係史研究』
(姜 在彦)

”にっかんきょうやく【日韓協約】”, 国史大辞典, ジャパンナレッジ (オンラインデータベース), 入手先<http://www.japanknowledge.com>, (参照 2012-12-23)

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