世界をゆるがした十日間〈上・下〉   岩波文庫  (1957/10)   ジョン リード(著) 原 光雄(訳)
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ロシア革命とは何だったのか、を今改めて問うということ,  2011/11/1

 (上)
ネヴァ河に停泊したオーロラ号から空砲が轟き、それを合図に兵士や労働者が冬宮に突撃した、とはサンクト・ペテルブルグの観光ガイドが案内することですが、この本には、そんな記述は出てきません。ドラマの一場面などでは、そうした筋書きがもてはやされるかもしれませんが、ジョン・リードが描くのは、ドゥーマと呼ばれる議会で、政府と野党など民衆を代表する各派の間で、どんなやり取りや攻防が繰り広げられたか、それらが街角でどのように宣伝され、立場を異にする各階層の人々がどう反応し、それらに応じて、議会や政府が何を打ち出し、時にはバリケードがどこそこに作られ、政権を追われたケレンスキー派の軍隊がどう動いたか、等々といった具体的な姿です。すなわち、十月革命というものは、レーニンによる決起の決定があったとはいえ、しばしばいわれるような血なまぐさい武装革命のイメージではなく、議会における政権の攻防という側面が強い、ということです。ニコライ皇帝一族の殺害は、まだ先の話です。

また、ボリシェヴィキーが多数派となり、政権の座に着けるようになるのは、三カ月にもならない短期間の情勢変化によることも、この本を読むと分かるのですが、これもいろいろ考えさせられます。ジョン・リードによると「ボリシェヴィキーは、訓練と教育を受けた人間に乏しい政党であった」とのことです。つまり、革命遂行において、経験と知識が決して十分とはいえなかったのです。これは、レーニンにしてからが例外ではなかったのです。何せ、帝政が倒れて間もなくの世界で初めての労働者、兵士、農民による政権掌握だったのです。これらの事実は、その後の歴史に少なからぬ影響を与えたと考えられそうです。

著者序文で「事実を書きとめることに関心をもつ良心的な報道記者の眼で、事件を眺めようと努めた」と書いているように、本書はルポルタージュの傑作といわれてきました。そうした本の記述を通し、ロシア革命を今一度ふり返り、具体的事実をもってその本質を現代において吟味し、泡銭にむらがる投機家が左右する新自由主義資本主義経済にとって代わるべき新たな社会の模索に役立てることは、きわめて意味のあることではないかと思います。

 (下)
先日、サンクト・ペテルブルグを観光ツアーで訪れたのですが、私たちのバスは、旧市街に、スモーリヌイ修道院の脇から入って行きました。私は、あのロシア革命、十月革命で、その修道院の隣にあるスモーリヌイ学院が革命の主要な舞台となったことをこの本で読んでいたので、胸が高鳴る思いを覚えました。実際には、修道院の正面から、帝国ドゥーマ(帝国議会)があった建物の方角に曲がってしまったので、このツアーでは学院の姿を見ることはなかったのですが、今回の観光ツアーでさえ、革命の大小の舞台となった通りや建物を次々に訪れることになったのでした。もちろん、観光ツアーですから、ロシア革命のエピソードはほんのわずかしか触れられませんでしたが、本書を旅立つ前に読んでいたので、観光向け解説で語られる建物、街角などに革命当時の出来事を思い出すことが、結構、出来たのでした。

エルミタージュ美術館は、当時、冬宮と呼ばれていましたが、ここは、革命の攻防にしばしば出てきます。マリインスキー宮殿には、ロシア臨時議会が置かれましたし、マリインスキー劇場では、革命の日々においても休むことなく上演が行われていたといいます。アレクサンドレンスキー劇場も同様だったといいますから、ロシア演劇の底力のようなものを感じさせられます。モルスカヤ街と聞けば、反革命勢力である士官学校生のユーンケルがバリケードを張ったことが思い出されます。・・・・・・それらのほとんどは、現在も同じ場所に同じ佇まいで見ることができるのです。そして、本書下巻の最後は、スモーリヌイで開かれた集会と「凱旋会議」の模様を伝え、土地と平和の布告、労働者の産業管理の布告などを確認し、公正な平和の永久的成就と社会主義の勝利とを保証するであろうという確信を表明しています。ですから、私は、もう一度、スモーリヌイ学院の石段に立ってみたいと思うのです。

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