罪と罰  ドストエフスキー(著) 工藤 精一郎(訳)  新潮文庫  新潮社; 改版 (1987/6/9)

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ラスコーリニコフの思考をたどることで,  2013/2/6

エリートとしての非凡人は、新たな時代をつくるために秩序を踏み越えて進むことが許される、という特異な理論をラスコーリニコフはもつ。老婆とその妹の殺害もその理論により合理化されるとしつつも、いろいろな人、とりわけ娼婦となるソーニャの自己犠牲と愛の思想と行動に接する中で彼の理論は崩壊してゆき自首してシベリヤ送りとなり、その地でソーニャの信念を理解する。

ドストエフスキーの云わんとすることは、こんな要約では表しきれない肉厚で重層な言動を何人もの登場人物にさせ、それらと関わったりあるいは独立にラスコーリニコフの思考をたどることで表される。それに関し、いくつもの対立軸を配していることはこの物語をこの上なく興あるものにしているように見える。ラスコーリニコフとソーニャはその核としてこの物語の主軸となっているし、また、罪と罰との取り合わせはいうまでもなく、上記「理論」と良心との呵責は平凡な対立軸ではあるが重要であり、その他にも、彼と学生仲間との交わり、彼とニヒリストであるスヴィドリガイロフとの思想対決、彼と予審判事との事件を巡っての駆け引きを含むやりとり、彼とその母妹との葛藤、インテリゲンチヤとしての彼とマルメラードフ他の庶民貧民との対比、等々、である。

ソーニャの血肉となっているところが、原始キリスト教的(であるのかな)な思いであるところは、ドストエフスキーの特徴なのであろうが、別の角度から云えば、風土に根をおいた民衆のこころに寄り添うところの大切さを云っているのかも知れない。19世紀中盤から後半にかけてのドストエフスキーが生きた時代のロシアは、トルストイを挙げるまでもなく、多くの貴族やインテリゲンチヤが、西欧を横目で眺めながらロシア社会を変革しようと試みた時代だったとみることができるが、ソーニャのこころは、そのような時代にドストエフスキーが晩年の「カラマーゾフの兄弟」にむけ思索を重ねる基礎としての想念だったのだろうか。

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