わが心の大伴家持 清川 (著) 飛企画 (2006/1/30)

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著者が青春時代から心を寄せてきた家持への頌歌, 2018/4/25

この本には、大伴家持の少年時代から、また恋多き青春時代から、越中を初めとして諸国の国守として勤めた時代を経て、万葉集の編纂にあたった時期、そして謎の断筆まで多くの歌がその背景とともに紹介されている。著者の感想や想像などもさらりと触れられている。

それらの中から、私の印象に残った歌をピックアップしてみる。

「今日(けふ)降りし 雪に競(きほ)いて 我がやどの 冬木の梅は 花咲きにけり」
少年時代、父旅人の太宰府赴任に同行していた折の歌で、父に歌を習っていた頃の作である。

「降り放(さ)けて 三日月見れば 一目見し 人の眉(まよ)引き 思ほゆるかも」
この歌は、家持の従妹、坂上大嬢(おおいらつめ)に送った歌かと著者は想像している。大嬢はのちに家持の妻となるひとである。

「我妹子が 業と作れる 空きの田の 早稲穂のかづら 見れど飽かぬかも」
旅人の妻が亡くなって2ヶ月後、竹田庄(現、柏原市竹田あたりか)に坂上郎女をたづねた。郎女の娘が大嬢。その大嬢が作ってくれた早稲穂のかづらをうたった歌である。ここで、ふたりはむすばれたようである。

29歳になった家持は、越中守として単身赴任する。その2年目、京より造酒司令史(さけのつかさのさかん)田辺福麻呂(さきまろ)が訪ねて来る。風光明媚な「布勢の水海」見物が明日に予定されている。そこで、まず先に水海をめぐる歌を福麻呂がうたう。
「いかにある 布勢の浦ぞも ここだくに 君がみせむと 我れを留むる」
家持が応えて、
「乎布(おふ)の崎 漕ぎた廻(もとほ)り ひねもすに 見とも飽くべき 浦にあらなくに」
布勢の水海も今はない。

越中赴任中、陸奥から金がでて、天皇に献じられた。その時、家持は、有名な
「海ゆかば 水漬く屍 山行かば 草生す屍 ・・・・・・」
の長歌をうたった。実は、ここから「・・・辺にこそ死なめ」までは、著者によれば、その時の天皇の詔書の中にある一節なのだそうである(万葉集研究で有名な中西進氏によると、大伴氏が佐伯氏とともに伝えてきたこの歌を、天皇が引用した、とのこと)。晩年、過酷な罰を受けることになるのを家持はこの時、それを予想もしていなかった。

5年ぶりに京に帰って来た家持の心は、権力争いの高まる中でさびしさを感じていたらしい。
「うらうらに 照れる春日に ひばり上り 心悲しも ひとりし思えば」
ひばりは家持なのかも知れない。

「筑波嶺の さ百合(ゆる)の花の 夜床(ゆとこ)にも 愛(かな)しけ妹ぞ 昼も愛しけ」
万葉集にたくさんの防人の歌を集録したのも家持であった。国を守るためにかりだされた民の心を深く思ってのことであろう。

著者は、2014年に93歳で亡くなりになっているが、この本は、彼女が青春時代から心を寄せつづけてきた家持への頌歌である。
               

                                                       

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