青少年達の戦争・・・予科練と満蒙開拓青少年義勇軍

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今年(2006年)の8月15日は、首相(小泉純一郎)が自民党総裁の任期満了を目前にして、靖国神社に参拝し、その宿題を後継首相に先送りしたことでユニークな日となった。それが無くとも、この日には、テレビ・新聞各社が戦争に関する話題で時間や紙面を埋めるのが恒例となり、逆に他の季節にはそれをあまり扱わないことも恒例になっている。

そこで、私も、この日を中心に振りまかれる関連情報に接しつつ戦争のことを考えることとした。その一環として、以前から一度行っておきたいと思っていた「予科練跡」と「満蒙開拓青少年義勇軍内原訓練所跡」を訪ねてみることにした。

翌16日、近づきつつある台風のため、湿気の多いそよ風の吹く霞ヶ浦湖畔の陸上自衛隊武器学校へ連れ合いとともに車を向けた。自宅を出て小半時、ものものしいゲートで出迎えてくれたのは迷彩服をまとった女性自衛官。簡単だが厳重に氏名・住所・電話番号・車のナンバーなどを書かされて入場。校内地図板で、今度は若い男性自衛官が丁寧に立ち入り禁止の場所などを指示してくれる。

早速、火砲庫とその隣に並ぶ大小の火砲、戦車、装甲車などを見て回る。医務科の建物は、昭和15年生れ、66歳だ。どこかの校舎と似たような木造建築。戦後しばらく比較的最近まで、兵舎を利用した校舎が結構あったことを思い出す。

 
木造の医務科の建物は昭和15年にできた

山本五十六元帥の銅像が建っている後ろに、「雄翔館」と名付けられた資料館が建っている(写真↓)。入り口前の碑に、「雄翔館は、太平洋戦争において、卒業生の8割が、日本の勝利を信じ、潔く花よりも美しく散っていった海軍飛行予科練習生の生活や、英霊の遺書、遺品等を永く保存して、その遺徳を後世に伝えるために、昭和43年予科練生存者等によって建立されました。」と書かれている。中にはいると、説明テープが流れ、「英霊の遺書、遺品」が年代順に並べられているのを中心に、戦闘機、艦船、潜水艦、人間魚雷などの特攻兵器の模型、ゼロ戦のプロペラ破片なども展示されている。「卒業生の8割が、日本の勝利を信じ、潔く花よりも美しく散っていった」とされるとおり、遺書、遺品、弔辞などが何よりも多く目をひく。後半には、特攻として散っていった記録が多くなる。予科練生は、満15歳以上20歳未満だった。卒業生は約2万3千、その内、18564名は「英霊」になったという。

 
雄翔館、銅像は山本五十六元帥

碑文等には、「日本の勝利を信じ、潔く花よりも美しく散」る、つまり「名をも命をも惜しまず何のためらいもなくただ救国の一念に献身し」、「未曾有の国難に殉じて祖国の繁栄と同胞の安泰を希」い「特別攻撃隊員となって一機一艦必殺の体当たりを決行し」たとの記述が見られる。「祖国の将来に一片の疑心をも抱かず桜花よりも更に潔く美しく散って、無限の未来を秘めた生涯を祖国防衛のために捧げ」ることを通して我らの命は永遠のものとなる、と言い聞かせ言い聞かせつつ散って行ったという若者の心を思いやることができる。つまり、予科練には、花の盛りに桜花よりも更に潔く美しく散って国のために殉ずることにより永遠の命を得る、という思想があって、若者は、それを拠り所に死をも克服せしめて逝ったものと思われる。

昼食にあんかけうどんを食べてから、常磐高速を水戸に向かい「内原郷土史義勇軍資料館」すなわち満蒙開拓青少年義勇軍の資料館を訪問した。

新しいコンクリート打ちっ放しの建物に入ると、郷土資料と並んで、義勇軍の資料がきめ細かに展示されている。その内、義勇軍の綱領が次ぎのように「期すべきこと」を記している:
1.義勇軍ハ 天祖ノ宏謨ヲ奉ジ 心ヲ一ニシテ追進シ 身ヲ満洲建国ノ聖業ニ捧ゲ 神明ニ誓ッテ天皇陛下の大御心ニ副ヒ奉ランコトヲ期ス
1.我等義勇軍ハ 身ヲ以テ一徳一心 民族協和ノ理想ヲ実践シ 道義世界建設ノ礎石タランコトヲ期ス

建設の経緯は「拓魂」碑文に次の通り書かれている:
「満蒙開拓青少年義勇軍は昭和12年11月3日時の内閣に提出された『満蒙開拓青少年開拓義勇軍編成に関する建白書』が同月30日閣議の決定するところにより創設された
これに先立ち この地内原に満洲移住協会並びに日本国民高等学校協会によって内原訓練所の建設が進められ 同13年1月より義勇軍募集要項による内地訓練が開始されるに至った」

そして昭和20年の終戦までにここで訓練を受けた青少年は、その数8万6530名。満15歳から20歳未満、午前に訪れた予科練の若者もおなじく15歳以上20歳未満の若者達であった。

そのイデオローグは訓練所長の加藤完治、軍政における推進者は東宮鐵男であった。さらに、それを実現するにあたって理念構築に与った学者として、京都帝国大学教授橋本伝左衛門と東京帝国大学教授那須皓の二人の役割が大きい。御用学者というものはいつの時代にもいるものだが、この二人は忘れないでおこう。

「拓魂」碑文によれば「義勇軍は 訓練所長加藤完治の訓育を受け 三百余棟の簡素な日輪舎に起臥し 心身の鍛練を経て 勇躍満蒙の曠野に赴いたのである。」彼らの毎日の生活の場であった日輪舎は、資料館の隣に復元されている。この日輪舎には、60名からの隊員が寝起きをともにしたという。2000名ほどの青少年達が訓練を受けていたことになる。

 
復元された日輪舎

掲げられた多くの写真を見ると、苦しい日々とともに希望に燃えた明るい様子も数多く写っている。日々の軍事・農事などの訓練、学習を通じて、狭くて貧しい日本の農村から、広くて豊かな満州の地に夢をはせた青少年達のうきうきした気持が伝わってくるようであった。私が、もしここに参加していたとしたら、やはりそんな夢を羽ばたかせたに違いない、と思った。

説明書きによると「義勇軍の訓練期間は三ヵ年、そのほとんどは現地訓練であったが、このうち二〜三ヶ月間基礎的訓練を行うためこの地に全国唯一ヶ所の内原訓練所が開設されたのである。」訓練を終えた義勇軍は、内原駅から汽車で東京に行き、宮城を拝した後、新潟などから満州に渡った。現地訓練を終えた若者は、橋本や加藤の教えた「陛下の土地を耕すという精神」をもって勇躍勇んで満州各地に散って行った。

結果がどうなったか。帰宅してから、1946年10月末時点の義勇軍関係者の実態を統計にてみてみると、総数58496名となっていて、その内、死亡4.7%、引き揚げ者が29.3%、行方不明29.2%、未復員25.6%となっている。つまり、どこにいるか分からない者が半分以上もいる。他の一般開拓団関係者の、死者が約25%、行方不明、未復員が20数%で引き揚げ者約40%という数字と比べると義勇軍の数字はきわめて特徴的である。

青少年に関する二つの資料館を訪ねて、また、新しい事実を知ってしまった。そんな一日であった。

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