一期一会の風景と永遠の風景

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通勤などで見慣れた車窓の風景といえども、二度と同じものはない。線路沿いの道の向こうに建つ灰色のブロック塀でも4月6日に見れば、柔らかい光に輝く赤や黄色のチューリップが点々と並んで咲いていたりする。ハム工場の外の懸崖には桜が花びらを舞い立たせていたりする。田園では、小川に水が勢いよく流れ、田圃には水がたまっているのに気が付き、昨日までの張り付いたような冬の田圃の風景とは違うことを突然感じたりする。こんな平凡な風景でも、曇りの日だったらあまり目にとめずに過ごしてしまうかもしれない。雨の日っだったらまた違った風景に見えるかもしれない。同じ時期でもそれが夜なら、夕餉の窓枠が浮き立って見えたり、工場の残業の灯だけが目にとまり、田圃は真っ暗で照葉樹の懸崖林と区別がないというように、全く違う風景になる。

風景要素の数は、無限とは言わなくとも数えきれないほどあるので、その組み合わせを考えただけで、同じ場所でも時が違えば同じ風景はあり得ないと思われる。

しかし、まったく初めての土地に来た時に、どこかでみたような風景だが・・・と思うことがある。始めていった外国でさえそれはあって、かつて南フランスのオランジュ郊外を歩いていてそんな気分に出くわしたことがあった。3月の下旬で、野にはお百姓がトラクターを動かし、その脇には野草が伸びタンポポが咲き、柳の木に木の芽が芽吹き淡い緑が散らばり、用水路にはフキが覆いかぶさり始めている。遠くの山、多分、ヴァントー山、が薄くかすんで鳥の声が聞こえる。お百姓も遠くにいるのでその姿はフランス人とは識別できない。まったく日本の春の風景と酷似した要素ばっかりだ。私は、その時、何と小学校1年生か2年生の春、静岡郊外の丸子の里で田圃の畦を歩き回っている自分を想ってみたり、初めて就職した北海道の根釧原野の春を思い出したりしたのである。連想したそれらの春は、別にどこの風景でも良くて、いくつかの共通要素だけでいくつかの風景を経験した時を連想したのだろうと思う。

記憶というものはフィルターにかかって蘇ることが多い。歳をとるとその程度が激しくなって、フィルターの「め」もかなり細かくなり、細かなところは省略されておもな要素だけが見えるように思われる。そうすると、過去に見た風景の記憶にも眼前の風景と共通なものが増えてくるかもしれない。しかし、現前にある風景のリアリティーに関しては、フィルターがかかっていない故にきわめてユニークで、過去の記憶の風景とは訴える力が違う。電車が高みを走っている時に見える中遠景の桜並木の花盛りの風景は思わず声を出したくなるようなことがある。その場所を他の季節にながめてもちっとも驚いたりはせず、残った花の記憶も驚きの感覚とともに日がふるにつれて薄れ行く。でも、いつまでも記憶に残る風景はあって、フィルターの「め」が細かくなっても残るものであり、それを永遠の風景と言うことがある。

我々の頭の中では一期一会の風景と永遠の風景が絡み合って展開し人生に彩りを添えてくれているようである。

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