軍隊も会社も役所も、組織はみんな階層構造をもっていて上に立って指示命令をくだす人とそれに従う人とに分かれ、上に行くほど大勢の人々を配下に擁しています。

しかし、上の人でも下の人でも人は人、仲間であるということも明らかな事実であり、人格としては同等なはずです。世の中では階層が上の人が「偉い」人、という認識が広くあって、時にそれが人格としても差があるように錯覚されることさえあります。それは、多くの場合、大勢の人々を配下に擁する責任の大きさを指しているのかもしれません。その責任というのは、元来、自覚するべきものなのです。

戦争に勝利して国と国民に「繁栄と誇り」をもたらすにあたって、最高司令官の力はしばしば決定的な役割を演じ、敗戦となれば、責を問われます。会社の成功に幹部の決断や指導力が決定的でありましょう。大きな損失に対してはそれなりの責任があることになります。近年吹き荒れたリストラの嵐では、会社に長年の貢献をしてきたにもかかわらず首を斬られた社員が塗炭の苦しみに晒される事例は数え切れないわけですが、それ故に、担当部長など実施責任者が、斬られる者に劣らずその責の重大さに身を切られる日々を送ることも日常茶飯だったのです。責を自覚したした人ほど、その責を全うできたのではないでしょうか。

戦場における戦勝であれ、大虐殺であれ、また会社における大収益であれ、事故であれ、当事者にとってはひとつのことであっても、そして、立場上、たとえ不条理と思ってもそれを遂行するしかなかったとしても、あるいは、たとえ不可抗力であったとしても、責任の度合いに関しては上には上の、中には中の、下には下なりの責任があるのです。給料の差もそれによるところが多いのでしょう。

戦争では、殺人が公認されます。それは戦闘員に対して、という条件が付くはずなのですが、実際はそれが外され、非戦闘員も殺されることが多く、近代以降、非戦闘員の方が多く被害を被るようになり、それゆえに反戦思想・運動が広まりさえしたわけです。戦争責任が云々される時も、非戦闘員の被害が対象になることが多いのです。

人格としては人と人の間に違いはないはずですが、その責任においては上に立つほど大きくて、その違いはあるのです。人格同等、責任不等です。責任の違いに目をふさいだ場合、人と人の信頼が崩れることがしばしばです。戦後処理の問題で、目をふさいでいるのが日本であり、ふさがなかったのがドイツです。隣国との信頼が崩れているのが日本であり、隣国とEUを作ったのがドイツです。

今からでも遅くありません。責任を自覚しその違いに目をふさがず、あの戦争にもう一度向き合って、世代を超え、立場を超え、仏教でも神道でもキリスト教でも、人間に対する信頼を大切にしつつ、事実を見つめ、経験や見聞を交換し意見を出し合い、その信頼を作り上げることが必須だと思います。小異を捨てて大同をとれば可能なことでしょう。その先頭に立つ責を負う政府が、むしろ自覚が無く目をふさごうとしているのは何よりも不幸なことだと思うのです。であれば、国民の間で、それをすすめて行くしかないのです。それも、「下なりの」責任の自覚というものかも知れません。

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人格同等、責任不等・・・あの戦争と向き合うために

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