教育と戦争の歴史瞥見・・・父の辿った明治・大正・昭和

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私の父(1902〜97)は、大正末期から昭和の中期まで教員として働いておりました。まさに戦争の時代に、もっとも油ののりきった時期を教員として過ごしていたのです。

戦時中、日本国民は、ほとんど完璧といって良いほどに思想統制されていました。どうしてそうなってしまったのか、ということに関して、教育と治安維持法がそれを支えた双璧としてしばしば指摘されます。父が、教育の場で、いかに歴史を生き抜いたのか、そこにどんな葛藤があり、どんなよりどころを見つけようとしたのか、そして見つけていたのか、戦後の急激な変化の中で、何を思い、どこに辿り着いたのか。父の生涯は、まさに戦争と切り離せないものだったのだ、と今になって強く思うのです。

第2次世界戦争における敗戦を行き着く場所として日本が経験した15年戦争。その歴史をいかなる形にせよ繰り返させないという多くの日本国民の願いはとても強いものがあります。しかし、その願いに反するような動きが少しづつ増えている昨今、私は、教育者としての父の生きた時代をおさらいしてみようと、戦争と教育について改めて少し勉強してみました。以下に、父が戦争と係わって生きたであろう事象を拾い上げつつ歴史を確認してみた結果をたどります。とりあえず、明治初期からサンフランシスコ講和までをアップします。これからもひまを見て改定・補強して行こうと思っております。

明治政府は、富国強兵の推進のため中央集権の強化を図りつつ、その一環として基礎教育と高等教育の両面から教育制度の確立を図ります。大学規則・中小学規則をつくり(1870)、師範学校、外国語学校などをも作り始めます。基礎教育分野では、1881年、小学校教則綱領が作られ歴史教育は日本史に限るとされました。小学校令、中学校令を公布(1886)し、翌年には教科書検定規則が制定されます。この検定は、日清戦争までは、さほど厳密に行われなかったようです。大日本帝国憲法の発布(1889)により近代国家としての形が整います。次いで教育勅語が下賜(1890)されます。ご真影を納める場として奉安殿が各学校に置かれます(1891)。

教育勅語では、教育の基礎にあるものを皇祖高宗、つまり歴代天皇の遺訓と定めました。この当時の日本歴史教科書には、神武の東征が、天皇に服従しない人たちを平らげ日本統一を成し遂げたものとして記述され、日本武尊が更に征伐を続け、その後、神功皇后が熊襲の背後にいた新羅、百済、高麗の三韓征伐を行うとされています。この後、日清戦争(1994-95)となるのですが、これらの歴史記述が日清戦争を子どもたちに納得させる材料になっていたと思われます。

明治政府は、この時期、欧米諸国に伍してゆくべく富国強兵策を進めるのですが、この時代の戦争は、江戸時代までの武士という戦争の専門家集団による戦争から、一般国民からなる軍隊による戦争に変わりつつありました。その最初の戦争が西南戦争(1877)であり、それは多分、長州藩の奇兵隊の経験を継承していたのかも知れません。そのような軍隊による国家間の戦争として日清戦争は日本にとって最初の体験でした。

日清戦争へ子どもたちや一般民衆の関心を向けるために、「木口小平は死んでも口からラッパを話しませんでした」など忠勇美談が宣伝されます。「勇敢なる水兵」に代表される軍歌も多数作られました。芸能界、出版界もそれに便乗し、徳富蘇峰、福沢諭吉、植村正久なども戦争支持の論調を張りましたし、この時期には内村鑑三も日清戦争は正義の戦いと言っておりました。

上記、教育勅語の発布後、ご真影への最敬礼、祝日大祭日の儀式がそれぞれの唱歌を伴って行われる一方で、教育勅語の内容から外れるものは切り捨てられて行くのです。視学官が置かれます(1899)。小学校国定教科書制度が公布(1903)されます。検定から国定への切り替えです。修身、国語読本、地理、日本歴史の国体に関する4教科です。これは、いわゆる皇国史観による教育の具体化でしたが、先に控える日露戦争に向けての引き締めのねらいもあったと思われます。

しかし、この時代、がんじがらめの国家統制とはなり得ていない側面も見えます。たとえば、「朝妝」という黒田清輝のヌード絵画は大衆向けには隠される反面、展覧会など専門家間では自由な議論が許され、「君死にたまふことなかれ」は非難はあっても出版に問題はなく、樋口一葉などのすぐれた文学はこの時期に作られていました。これらは、次の時期、大正デモクラシーと検閲強化とに分かれてつながって行ったものと考えられます。

日露戦争(1904-5)では、報道の選別が行われ、戦争美談は海軍の「広瀬中佐」と陸軍の「橘中佐」が唱歌などとしても広まります。乃木将軍の凱旋なども大々的に演出されます。韓国併合(1910)後は、朝鮮教育令(1911)を出し、そこにも日本語と教育勅語が持ち込まれます。

第1次大戦(1914-8)後は、大正デモクラシーの自由主義、人道主義、平和主義などが展開され、成城学園、玉川学園、いくつかの師範学校附属小学校などで自由主義教育の実践が行われます。「赤い鳥」の運動も展開されます。他方、ヨーロッパの列強諸国を意識して、臨時教育会議が教育制度全般にわたる答申(1917)を行っています。それを受け、大学令が出され、統制が強くなっていますし、各種詔書がだされ(1917-9)、教育勅語の精神をいっそう強く浸透させる措置が執られます。配属将校制度が敷かれ(1925)、軍事教練が実施(1925)されます。配属将校は、第1次大戦後の軍縮の世界的動きのなかで、余った将校を利用するものでもあったのです。青年団がこれらに先立ち作られます(1905)。そこには、堅実剛健、忠君愛国の精神を育てるという目的がありました。

米騒動(1918)、経済恐慌(1920)、関東大震災(1923)などと続くなか、普通選挙法と引き替えの形で治安維持法(1925)が公布されます。治安維持法は、何よりも新たに生まれた日本共産党(1922)を日本に根付かせないためであることはその後の歴史が示しています。満州事変(1931)、満洲国建国(1932)、国連脱退(1933)、二・二六事件(1936)を経て国家総動員態勢に入って行きます。治安維持法は、国民の言論をも強く規制することとなります。尋常小学校が国民学校に、高等小学校が国民学校高等科に変わり(1941)、上述四教科に理数科、芸能科、体練科からなる教科の再編成が行われます。登校した児童生徒は、奉安殿に最敬礼し、儀式ではご真影に最敬礼をして、忠君愛国の気を養いました。これらを経て皇国民錬成の体制が出来上がります。中学生以上の勤労動員(1941)も行われます。「非国民」「贅沢は敵」などのスローガンは、国民を強く縛りました。そして、多くの若い命を戦場に散らせることとなり、やがて空襲、原爆、敗戦(1945)となります。

八・一五を経て、何より最初に国の指導者が考えたことは、国体の護持でした。九月一五日に出された「新日本建設の教育方針」(1945)は、世界平和、科学的考え方とともに国体の護持をうたっています。そして墨塗り教科書が使われます。そこでも、軍事や戦争に関する部分は墨が塗られますが、国体護持については塗られませんでした。

GHQは、軍国主義の一掃を図るため、財閥解体(1945)、農地改革(1945)をはじめ、一連の民主化措置を進めます。敗戦の年の一二月には、教職員組合が結成(1945)されます。戦前に各種の民間教育運動をしていた教師が中心になって結成されたのでした。翌年冒頭には天皇の人間宣言(1946)があり、極東軍事裁判が始まり(1946)、農地改革がすすみ、やがて日本国憲法が公布(1946)されます。

教育基本法が制定され六・三制教育が始まり「学習指導要領」が作られます(1947)。新しい日本史教科書「くにのあゆみ」が使われ(1946、秋)、翌年には「あたらしい憲法の話」(1947)が刊行され、戦争放棄などが解説されます。1948年6月19日には教育勅語が失効します。高校向けに「民主主義」(1949)が出されます。

この時期、アメリカの対日支配方針の大きな変換が行われます。その一つの現れに、戦後になって2回来日したアメリカ教育使節団の性格の違いがあります。第1回目(1946.3)は、教育の官僚統制排除、六・三制など民主化の勧告を行いましたが、第2回目(1950)は、教育に反共的役割を求める報告書を提出しました。ソ連、中国などの社会主義国に対決するため、日本を反共の砦とするアメリカの戦略変換の一環でした。それと前後して、教育の現場にもレッドパージが吹き荒れます(1949)。下山、三鷹、松川事件、共産党幹部の追放などが起こり、朝鮮戦争(1950.6ー1953.7)が始まり、警察予備隊が発足します。

日教組は「教え子をふたたび戦場に送るな」をスローガンに教育研究集会を始めます(1951)。高知県の教師、竹本源治が「戦死せる教え児よ」と歌います:「逝いて還らぬ教え児よ/私の手は血まみれだ/君を縊ったその綱の/端を私も持っていた/…/逝った君はもう還らない/今ぞ私は汚濁の手をすすぎ/涙をはらって君の墓標に誓う/『繰り返さぬぞ絶対に!』」

サンフランシスコ講和条約、日米安全保障条約が調印されます(1951)。そして、歴史は、現代へと歩を進めてゆきます。



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