「貴婦人と一角獣」・・・・リルケ、辻邦生と観る

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乃木坂、国立新美術館、2013年7月12日

本で読んで、ほとんど憧れとなっていた「一角獣のタペスリ」が、パリのクリュニー美術館を出て東京にやってきた。

地下鉄千代田線の乃木坂駅3番出口と直結の国立新美術館は開館時間が過ぎてそれほどは経っていないのにまずまずの人の流れ。入場前に、コインロッカーにリュックを預け身軽にして会場の2階に上がる。

ご挨拶やらメッセージが掲示されていて、美術展の常で、まずそこに人が群れている。速読よろしくそれらを流して中に入ろうとすると、目の前に動画で「貴婦人と一角獣」のタピスリの見所を解説している。少し見ていると、これは、先入観を与えようという魂胆なのが分かって、見るのを止め、足を進めると大広間に出て、そこに六枚のタピスリがぐるりと同心円上に並べられている。かなりの人が近くまたは遠くから眺めていて、小さな声がザワザワとほとんど気になるほどではないが聞こえている。

部屋の中心近くに立って、一回り眺めてみる。タペスリの一枚一枚は十畳敷きより広いかと思われる程だが、大きさは一定せずやや大小区々である。それらすべて、草花などが散り敷かれた赤地のバックに濃い緑の葉を持つ木々があって、中心に一人または二人の女性と獅子と一角獣が、家紋の付いた旗や紋章と小道具または大道具を配されていろいろの場面構成で並んでいる。それらの空間には、小振りの草花や小動物が散らばっている。

近くに寄ってひとつずつ見て表題と絵柄を見れば分かることなのであるが、向かって左から、曰く「触覚」「味覚」「嗅覚」「聴覚」「視覚」「我が唯一の望み」の順に並んでいる。すなわち、この展覧会では、この六連のタピスリを、このような「五感+1」説に基づいて観客を導いているのである。確かに、「触覚」では、貴婦人が旗竿と一角獣の角を握っていて、手の触覚を意識することが出来る。「味覚」では、貴婦人が木の実をインコにやろうとしていて、味覚を連想させることは出来る。「嗅覚」では、花の香り、「聴覚」ではオルガンの音、「視覚」では、鏡を見るなどとなるのである。「我が唯一の望み」は、天幕にそう書かれている。だから、それは、確かに分かり易い解釈には違いない。

しかし、それとは違う見方があってもおかしくないし、世の中には、もっと違った見方もごまんとあるに違いない。有名な例は、ライナー・マリア・リルケが「マルテの手記」に書いているような見方である。実は、そのごく一端が、この展示でも紹介されているのであるが、それも「五感+1」説を色づけるために使われていて、リルケの見方自体を紹介しているのでは、勿論、ないのである。辻邦生の長編「回廊にて」の末尾近く、クライマックスにこのタピスリが登場する。以下、それらに沿って観て行くこととする。


リルケと観る〜「マルテの手記」より

「マルテの手記」の記述は、少々長いのだが、次の通りである。注釈を付けながら見て行くこととする。

「アベローネ、ここにゴブラン織の壁掛けがある。僕は君もここにいると想像しよう。壁掛けは六枚ある。ここへ来たまえ。一枚ずつゆっくりと見て行こう。しかし初めにまずすこしさがって、六枚を同時に見たまえ。なんという静かなつつましい感じだろう、ね? ほとんど変化がない。どれにも同じ楕円の青い島がおとなしい赤色の地に浮かんでいる。そして、その赤地のなかには花が咲き、さまざまな小さな動物が無心に生きている。六枚目の壁掛けの島だけは、軽くなったようにすこし浮き上がっている。どの壁掛けの島にも一つの姿、女の姿が見える。着つけはそれぞれちがうが、同じ女である。ときどきその女のかたわらにもっと小さな姿、侍女らしい女の姿が見られる。そして、どの壁掛けにも紋章を支えている動物が大きく織り出されている。その動物は女のいる島の上にいて、その生活へはいりこんでいる。左が一匹の獅子、右が白色の一角獣である。二匹とも同じ旗を持ち、頭上高くひるがえるその赤地の旗の青い縞のなかには、銀色の上弦の月が三つならんでいる。−−見たね? では一枚目の壁掛けから見て行こう。」

マルテは、年上の親しい女性、アベローネに語りかけるという設定で、このタペスリを説明している。六枚目が「少し浮き上がっている」と書いているが、私には、そうは思えない。が、たいしたことではないから、一枚目を見てみよう。



「女は鷹に餌を与えている。なんというきらびやかな衣装だろう。鷹は手袋をはめている女の手にとまって動いている。女は鷹を見つめ、手を侍女のざさげ持つ皿へのばし、餌を与えようとしている。右下にひろがっている女の曳き裾の上には、絹のような毛なみの小さな犬がすわっていて、目を上げて、自分も思い出してもらいたそうである。バラの低い垣が島のうしろをかぎっていることに君は気がついたろうか。紋章の動物は紋章ふうに昂然としている。その動物が着せられているマントも紋章である。美しいブローチがマントの前を合わせている。風がある。」

マルテには、この鳥が鷹に見えている。普通はインコとすることが多いそうだ。しかし、インコにしては精悍に見えるかも知れない。鷹とみても大きな違和感はない。バラの垣根は、女や鳥に見とれていると気付かずに過ごすこともあり得る。この垣根は他の絵にないことから、何かを言いたいのか、考えてしまう。絹のような毛なみの小さな犬に注目するのは、マルテだからかも知れない。



 「二枚目の壁掛けでは女が物思いに沈んでいるのを見て、僕たちは思わず足音を忍ばせて近づく。女は花輪を編んでいる、小さな円い花冠を。一本の石竹を編み加えながら、侍女のささげ持つ平盤からつぎに編む石竹の色を考えぶかい目で選んでいる。うしろのベンチにはバラをあふれるばかりに入れた籠が、手をつけられずに置かれていて、一匹の猿がそれを見つけ出している。今は石竹を編むのであろう。獅子はもう興味を持たないが、右の一角獣にはわかるらしい。」

物思いに沈む女と見る目は鋭い。普通は、花輪に注目するのではないだろうか。マルテの書くところをここまで読んでくると、マルテが、タピスリの絵柄を理屈っぽく見ることなく、自分の目線で素直に見ていることに気付く。私も、それに習ってみて行こう。



 「この静けさのなかに音楽が聞こえずにいたろうか。今までにもかすかにいつも聞こえてはいなかったろうか。女は重そうなひそやかな着つけをして、持ち運べるオルガンの前へ進み(なんというつつましい歩みだろう)、立ちながら弾く。侍女はパイプを隔てて主人に向かい立ち、ふいごを動かしている。女は今までにもまして美しい。髪は不思議な結い方で、二つに編み分けた髪が前へ持って来られて、髪飾りの上でたばねられ、末端がたばねた髪から兜の短い羽毛飾りのようにつき出ている。獅子はうなりを噛み殺し、不きげんそうに我慢して音楽を聞いている。しかし、一角獣は律動しているように美しい姿である。」

音楽は、観客のざわつきがある中では聞き取りにくい。中世フランスの館の静けさの中で聞いてみたいものだ。獅子は音楽にも興味が無く、一角獣は興味があるようなところから、一角獣という動物は、人のなりかわりなのかも知れない。それにしても、どんな音楽が奏でられているのだろう。そして、女の髪の結い方には必ず目が行くよね。



 「島が広くなる。天幕がつくられている。青い緞子の天幕で、金色の波模様がある。動物がそれを左右に開き、女はきらびやかな衣装が質素に見えるほど美しく歩み出る。真珠の頸飾りも女の美しさにくらべればなんであったろう。女は侍女が開いている小さな櫃から、いつも奥ぶかく秘められている重い美しい宝石の緡(さし)を取り出している。女のかたわらに設けられている高まった場所に小さな犬がすわっていて、それを見守っている。そして、君は天幕の上の端にしるされている言葉を見ただろうか。『わがただ一つの憧れのために』としるされている。」

天幕は遊牧民族のそれのよう。女が取り出した宝石は、己の身につけるのだろうか、それとも、憧れのお方のためなのだろうか。



 「どうしたというのだろう。なぜ下のあの小兎は跳ねているのだろう。なぜ僕たちは兎が跳ねていることが一目で感じられるのだろう。なにもが沈みきっているからである。獅子は手持ちぶさたである。女が自分で旗を持っているのである。それとも旗へよりかかっているのだろうか。そして、別の手で一角獣につかまっている。これは悲しみだろうか。悲しみがこのように端正であることができるだろうか。そして喪服が、このところどころに萎えの見える暗緑色のビロードのように、ひっそりとした感じを与えられるだろうか。」

悲しみに沈みきっている。子兎の跳梁が、それを際立たせる。これは、マルテの卓見である。誰が亡くなったというのだろうか。



 「しかし、まだ祝祭が催される。だれもそれへ招かれてはいない。そこでは憧れがはいりこむ余地がない。欠けているものがないからである。すっかりなにもがそろっているからである。獅子はほとんど威嚇するよう睥睨している。だれも来てはならないのだ。女はこれまでに疲れた様子は一度も見せなかった。ついに疲れたのだろうか。それともなにか重いものを持っているからすわってしまったのだろうか。聖体顕示台を持っているとも考えられそうである。女はほかの腕を一角獣へさしのべ、一角獣はうれしそうに後あしで立ち上がり、女の膝へ前あしをかけてのび上がっている。女が持っているものは鏡である。そらね、女は一角獣にその姿を映してみせているのだ−−−。」

一角獣は、誰かの成り代わりかと思われたが、ここに来てそれは真実味を帯びてくる。多分、憧れのお方なのに相違ない。マルテは、一連のタピスリに物語を読み取っているに違いない。

 「アベローネ、僕は君もここにいるように考える。君にはそれがわかるね、アベローネ? 君にはそれがわかるにちがいないと僕は考える。」(以上、引用は、リルケ著、望月市恵訳(1987)「マルテの手記」岩波文庫、p.129〜132)

ここにあるのは、一連のタピスリを見たままのリルケの素直な印象である。


辻邦生と観る〜「回廊にて」より

次には、辻邦生「回廊にて」より引用しつつ、このタピスリを見て行こう。この小説は、亡命ロシア人画家マーシャの精神的彷徨を彼女の日記や手紙を頼りにたどる物語である。引用は、寡作だった彼女が、晩年近く、止んでいた画作を再開するにあたってめぐり会った啓示の時を描いた部分である。本文は、彼女の手紙の引用として漢字交じりカタカナ文であるが、ひらがなに改めさせて頂いた。

「・・・私は、いつのまにか、死んだアンドレとローザと肩を並べているのでした。私の腕には、泣くこともよく出来なかった私の小さな娘が、健やかな寝息を立てて、眠っていました。私は、その時、奥の部屋から、明るい、たのしげな音楽が洩れてくるのを、耳にしました。私は、二人をうながして、暗い、細長い廊下を通って、奥の広間へと入りました。」

アンドレもローザも、マーシャに大きな影響を与えた友人である。「楽しげな音楽」が聞こえてくるところが重要な環境を作り出す。

 「そこは光の溢れる、美しい、輝かしい広間でした。広間には、誰一人見当りませんでした。音楽は、そのきよらかな天井から、私たちの上に、静かな調べで、鳴りつづけていました。しかし、その広間が私を喜ばしたのは、それだけではありません。広間の大きな壁面を覆って、美しい六聯一組のタピスリが、まるで空から花の降りそそぐような思いに、私を誘ったからでした。それは、どの一枚にも、きよらかな娘が一角獣に守護されて、あるいは、花を摘んで花環を編み、あるいはオルガンで甘美な調べをかなで、あるいは小鳥たちに餌を与えているところなのでした。花花はどの構図の全面をも埋め、軽やかな花々の降りそそぐ中に、兎や犬がたわむれ、浄福の香華が豊かに漂っているのでした。」

マーシャは、まずこのように六聯一組の一角獣のタピスリを概観したのである。

 「私はその広間にどれ程ながいこと立っていたことでしょう。私が我にかえった時、私の傍には、アンドレもローザも小さな私の娘も居りませんでした。私は、ある美術館の一室に居り、ひっそりとしたその部屋で、やはり、六聯一組のタピスリを見ていたのでした。部屋に一方から、廊下をこえて、向こうの窓に夕日が差し、その同じ夕日が、パリの町の雑踏を照らしているだろうことは、容易に、想像できるのでした。」

パリの街なかにあるクリュニー美術館におけるある日の出来事であることを暗示している。

 「私は夢からさめたように、あたりを、あらためて、眺めまわしました。彼(彫刻家)が死んで以来、私は、ながい、ながい眠りの中で暮らし、今その瞬間に、目が覚めた、と言った感じでした。それは、しかし、実に、甘美な、きっぱりした目覚めでした。それは、ドーヴェルニュ館の夏の朝の目覚めを思い出させました。」

ドーヴェルニュ館とは、アンドレの実家である。マーシャは、若かりし頃、ドーヴェルニュ館を訪ね、滞在しアンドレとの交感を重ねた。彫刻家は、彼女が、後半生のある時期に同棲していた相手であるが、優秀な芸術家であり、勇気ある抵抗運動家であった。彼が死んで以来、画作が途絶えていたことを知ることが出来る。

 「私は、それまでにも、何度となく、この一角獣のタピスリを見ていたのですが、その瞬間ほどに、それが私を包み、また、私もその中に融けこんで、甘やかな喜びに貫かれていたことはありません。私は、六聯一組のタピスリが単にそこに存するというだけではなく、そこに、ある不動の、永遠と呼んでもいい、至福の空間があって、少女と花々と音楽と小さな動物たちが、何という調和に満ちた親密さで、それを満たしていることか、と、心の底に納得深く降りてくる或る感銘と共に、考えるのでした。
『総てのものは、繰り返される。単なる流転こそが、物の宿命なのだ。しかしこれは別だ。このタピスリの空間は、生まれた時に、自分固有の未来を持ち、自分の宿命を成熟する方向へ歩みつづけている。私が、今、これに出会うまで、このタピスリは、すでに、純粋な美しさを<現在>の表面に浮かべるまでの何百年に亘る長い時の空間を歩いて来たのだ。おそらく明日再び、これとめぐり会うとき、これは、それだけまた稠密な時間を旅しているのではないだろうか。私たちにとって、一日は繰り返しであり、朝に戻ることであるのに、これだけは、自分の新しい時間を、自分の未来と宿命の熟成の方向に向かって、きり開いてゆく。これだけが(与えられた時間ではなく)自分固有の時間をもち、自分であることに歓喜し、自らの成熟へと永遠に上りつづけてゆく。これこそが<美>であり、美の意味であり、美の本質なのだ。』
 「その時、私が考えたことは、ざっとこんなようなことだったでしょうか。私は、自分が、説明しがたい平静さ、勇気、晴朗さに充たされているのを感じました。今まで感じたどのような歓びよりも、魂の奥底まで、深く沈んでゆくような気がしました。それは、おそらく私が、この滅びの現実に居ながら、花々の降りそそぐ永遠の空間に、生きているという実感に刺し貫かれていたからでした。あの浄福の若い娘が一角獣に守護されている図柄は、万物の照応する一点−−−<美>−−−に守られている人間を象徴するように思われました。その時、突然私は激しい感動と共に、ある光が走りすぎるのを感じました。その時、突然、私は自分が全き自由になっているのを感じました。歓喜に満ちた自由となって、私は、万物の一つになっていました。私は消え、そして<私>がその時はじめて存在し出したのでした・・・・・・。」(以上、引用は、辻邦生(1973)「回廊にて」新潮文庫、p.215〜217)

この啓示によってマーシャは再び絵筆を摂ることになったのであるが、本当の美を理解した時には、すでに彼女の命は幾許も残されていなかったのである。しかし、彼女の長い彷徨の先にこの啓示があって、彼女の人生は最大の開花期を迎えそして閉じたのであるから、そこには一角獣のタピスリのもつ魅力が示されているといって良いであろう。

ここから、私たちは、辻邦生がこのタピスリをどう見て何を想念したかを知るのであるが、まことにそんなことがあっても不思議でない、とタピスリを実際に見て思うのである。


(画像の引用は、Wikipediaの「貴婦人と一角獣」のサイトより)



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