孫をみる

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孫が、しばらく自家に滞在している。来月、満1歳になる。目下、匍匐前進で部屋中くまなくはい回っている。最初に掃除機で部屋中きれいにしておけば、それ以後汚れることがない、というのは少々言い過ぎだが、とにかく良く這いずり回る。

そこで、けさ、孫の視線で部屋の中を覗いてみようと、床に寝ころんできょろきょろしてみた。まるで、倉庫に大きな物体があって、それらの大半は足を持っていて、それらが柱のようににょきにょき立ち並んでいる。それらの間は、けっこうな空間であるが、天井が低かったり、柱の間隔が狭くて、動き回れる場所は意外と制限される。小ぶりの箱をホームセンターで買ってきて辞書を入れソファーの下に置いている。それが、さしずめおもちゃ箱のように見える。孫も、そこに近づいて手を伸ばし、小さいサイズの辞書を引っ張り出して遊んでいる。私にとっても非日常の風景が見えておもしろかった。

発することばも徐々に変化しているのが分かる。先日まで、「あー」とか「ばー」とか、一音だけ発していたのが、最近は「ねんねん」「まんまん」あたりからはじまって「ばおー」とか「ばぶばぶ」とか複数の音をつなげて発するようになっている。食べるときに「まんま」、寝るときに「ねんねん」というのは、教育効果が出始めたのかと思う。こんなようにして言葉も身に付けてゆくのだろう。3歳くらいになると生意気なくらいにおしゃべりのできる子がいるものだが、老人もこれらと同じコースをたどれば3年くらいで生意気なくらいに例えば中国語をしゃべるようになるのだろうか。

自分の子育て時代は、けっこう忙しい中で子育てはもっぱら連れ合いがやってくれていた。幼いうちは、私も、風呂に入れたり、時たまミルクを飲ませたり寝かしつけたり、休日には外で遊ばせたり、病気になれば病院に連れていったり、そんなことはまがりなりにやってきた。今は、やることは同じであっても若い頃よりもう少し客観的に眺めながら育児に参加できるように感ずる。それが「子」ではなく「孫」ということかもしれない。孫をみる眼は子をみる眼とはいろいろ違いがある。「子」には何事につけ身につまされるように感じていたのに対し「孫」には我が身を忘れる感じが強いようである。

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