鞠子の里 今昔

故郷を考える

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まず最初に、丸子(まりこ)の里の場所について、簡単に紹介しておきます。東海道五十三次では、今の静岡、その時代の駿府のすぐ西側の宿場、というのが分かりやすいかも知れません。今で言えば、静岡市の中心街から国道1号線旧道で安倍川を、アーチが繰り返す安倍川橋で渡ります。そして右に小山をいくつか見ながら進むと道はやがて右にカーブして盆地状の区域へと入ってゆきます。そのあたりから谷間までの旧東海道筋が丸子の里です。南側の山の辺を丸子川が流れていました。谷は、上流に行くと次第に狭くなり、宇都ノ谷峠まで続きます。

つぎに新旧地図を並べてみておきましょう。上が1957年当時1)、下がほぼ現在に近いもの2)です。(地図をもっと詳しく見るためには、1957年当時はshouwa32.pdf へのリンクを、現在はpresent.pdf へのリンクをそれぞれクリックしてご覧下さい。)



唱歌の「故郷(ふるさと)」は、日本人の好きな歌の筆頭格といわれます。故郷をうたってこれの右に出るものはないでしょう。歌がこれなら、故郷を描く散文のトップは「思出の記」(徳富蘆花)の冒頭、一の巻(一)です。原文は、新聞小説一日分くらいあり、引用すると長くなりすぎますのでやめますが、山紫水明の故郷、典型的な田園風景を描いて余すところありません。原文にはおよびもつきませんが、要約を記します。

四方を雑木山に囲まれた盆地の東にひとつ孤立して立つ高鞍山。それは、四季に応じ色とりどりの変化を見せるだけでなく、雨が来るときは先ずそこに雲がかかり天気予報の代わりをします。山々から集めた水はその盆地を潤し良い米をもたらします。田植えの頃には、苗を運ぶお百姓の掛け声や早苗を植える女の歌声が響きます。田の草取りの暑い日は、夕立がありがたく、雨の過ぎ去った後に立つ虹は心身を洗ってくれます。溢れた小川ではフナやドジョウがはね回り、子どもはそれをつかまえるに躍起です。穫り入れの盛りには、どの家を訪ねても留守。時雨の季節になると、どの家からも籾摺りの音が聞こえ、俵が積み上がってゆく。新酒に舌鼓をうち豊年を祝うのです、云々。

(原文は、もちろん一層リアルで故郷の美しさを伝えてくれますので機会があったら是非お読みになってみて下さい。モデルとなった場所は、熊本県菊池盆地です)

私は、この部分を読んだとき、感受性高い幼心に記された丸子の里を脳裏に思い浮かべていました。私が、ここに住んだのが悪戯盛りの五,六歳の頃でしたのでいろいろな思い出があるわけです。ちょっとだけ、その思い出話にお付き合い下さい。

バスの走る街道沿いの水路には、きれいな水が勢いよく流れ、梅雨時ともなると水の勢いが増しいろんなものが流れてきます。子どもの目を飽きさせませんでした。エビや小魚をタモ(あみのこと)で獲って遊びました。

どこかのお兄ちゃんに連れられていった鰻獲り。田圃の用水になっている川の下流に筌(うけ)を設え、上流からズボンを裾まくりした足で、畦際をどしどしと足で漕いでは下流に追い込むのです。私は下流の筌のそばで見ていました。すると鰻がにょろにょろと長い身体を揺らせながら流れ下ってきたのです。私はそれにビックリして何のなすすべもなく見とれていました。その後、その鰻をどうしたのかは、少しも覚えていません。

当時、丸子の学校には、学校の水田(戦前は神撰田といっていたようです)があって、お米を作っていました。田植えから穫り入れまで先生やら誰やら、大勢でやっていました。私は、それがひとつの楽しみでした。父親がそこの校長だったので、その時には私も参加出来たのです。でも、私の仕事は苗を運ぶのでも刈り取りの手伝いをするのでもなく、エビガニやタニシやイナゴをもらって歩くことでした。それらは、やがて、お袋やお祖母さんの手によって食卓を飾ったりおやつになったりしました。

その他、縫い針で魚釣りをした話、クツワムシを捕った話、神社のお祭りのことなどは、別の所に書きました。

縫い針で釣りをした話と関係あるのですが、丸子川に水が流れるのは大雨の後だけでした。それは、多分、上流で農業用水として田圃に配っていたせいだろうと思うのですが、田圃が少なくなってしまった現在でも、普段はやはり涸れ川らしいのです。私が釣りをしたのも、涸れた中に遺された水たまりに取り残された魚をねらったものでした。地下に伏流水として流れる水も多いのかも知れません。その川も、東海道線と交わるあたりまで流れ下れば結構な水量で常時流れているのです。

その川が、洪水を起こしたこともあるのです。それは、ずっと後になった一九七四年七月七日、静岡市一帯が二四時間に五〇〇ミリを越える豪雨に見舞われ、あちこちで考えられないような洪水に襲われたのでした。七夕豪雨と呼ばれ、今でも話の種になります。涸れ川の顔を持つ丸子川も大量の水を流しきれず決壊し、丸子の学校も床上浸水となり、地域の多くの家をも含め大被害を受けたのでした。もちろん、私はそれを見ておりません。

長くなりました、地図に戻りましょう。

両の地図を見比べて何よりも違いが目立つのは、人家の拡がりです。50年間にこの平坦な田圃の原に住宅や工場、商店などがびっしりと建て込んで仕舞いました。1957年の地図を見ると、田圃の真ん中を真っ直ぐに道路が走っているのが見えます。この道路の開通を皮切りに住宅団地がその沿線に出来、工業団地が盆地中央北側に造られ、どんどんと田圃が消えていったのです。下の空中写真で、盆地の北側には工業団地、南側に人家が多く集まっていることがわかります。そして、現在、まとまった田圃が残っているのは、丸子川が盆地の南の山沿いに走っていますが、その丸子川が弧を描いてから平野部に出ようとする手前、井尻という地域の谷間にかろうじて認められるだけです。下の写真3)では、下部中央寄りの黄土色の拡がりのところです。



上でも触れたように「丸子の学校」と呼ばれるこの地域の小学校は、長田(おさだ)西小学校といいます。この学校が、創立100年を迎えた折に、それを記念するアルバムが発行されております3)。それには、昭和初期から現在近くまで、この地域がどう変わったかを示す写真が掲載されています。それをお借りして眺めてみますと、地図で見た変化が、具体的に見て取れます。

 
 1929年(昭和4)頃の学校と松並木、田圃と佐渡山     1954(昭和29)年、田圃の真ん中をバスが行く  

 
 1964(昭和39)年、住宅団地と工業団地が出来た      1986(昭和61)年の学校と建物と佐渡山

1929年の丸子の風景は、私が遊び回っていた1950年頃にも維持されていました。松並木も結構残っていて、松の木に見え隠れしてバスが学校に向けて走ってきたりしていました。その後、田圃の真ん中に国道バイパスが走り、バスはそちらを走るようになりました。1954年の写真には、そんなバスが白い点のように写っています。その時代から、その国道バイパスは、住民の足になる以上に、セメントや木材、機械やその部品などを運ぶことが多くなり、大規模な住宅団地や工場が田圃を埋めて造られてゆきました。そして、1986年の写真に見るように、この地域も見事な発展を見せたのでした。全国的な高度経済成長と農業の変化を、丸子の里も典型的に示しているのです。

私は思うのです、工業は農業に恩返しをしなければならないし、住民はこれからの食料をどうまかなっていったらよいか、一生懸命考えなければならないだろう、と。

二〇世紀の後半、丸子の里と同様な変化が全国で見られました。都市から遠く離れた地では、多くの人びとが故郷を離れ大都会に出かけ第二次、三次の産業を支え発展に貢献しました。そして、豊かな国を作り上げてきました。その結果として、農業に適した平坦な土地が、住宅地や工場用地、市街地に変わりました。平坦な土地が少ない静岡市では、農地は本当に少なくなってしまいました。そして、全国では食料自給率が四〇%を切ることにもなってしまったのです。その問題は、ここでは触れませんが、これをそのままに放っておくわけにいかないと多くの人びとが考えはじめています。そういう時にあたって、私は、上記のように思うのです。

「故郷は遠きにありて思うもの」と詠ったのは室生犀星でしたが、多くの人びとが故郷を遠くにしている今、利益至上の基準で突き進んできた日本の社会のありようをもう一度、深く考えてみて、そのひとつの課題として、故郷を、そしてその概念を新たな形で取り戻すことに挑んでみよう、と訴えたいのです。

(丸子の里に関しては、私が当地を訪ねたときの記録「鞠子の里、早春の散策」をも併せてご覧下さい)

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引用文献

1) 国土地理院(1957)「1:25,000地形図静岡西部(昭和31年修正測量版)」
2) 国土地理院(2009)「1:25,000地形図静岡西部(地図閲覧サービス(ウォッちず)版)」
3) 静岡市立長田西小学校(1987)「まりこの学校−静岡市立長田西小学校創立100周年記念誌」
   静岡市立長田西小学校創立100周年事業実行委員会