直哉と芙美子の尾道紀行

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尾道という地名は、小学生の頃、母から聞かされて覚えていた。多分、大正時代の話であるが、母方の伯父が、尾道の銀行支店に勤めていて、母も行ったことがあり、とても良いところだ、と話してくれた。その後、志賀直哉の「暗夜行路」に尾道が出てくることや、林芙美子の「放浪記」をはじめ、彼女のいろいろな作品に尾道が出てくることをいつの日にか知って、いつの日にか尾道に行ってみたいと、多くの人が思うように私も思うようになった。

1970年代の中頃かと思うのだが、仕事で広島に行った帰り、尾道に寄ってみようと思い立って出かけたことがあった。その時は、余り時間がなかったのか、多くのところには行っていない。駅に近い港で、渡船が行ったり来たりするのや海岸が階段になっていて潮の満ち干に応じて荷揚げがしやすくできているのに感心したのと、千光山にロープウェイで登って「文学のこみち」を歩いて文学碑の写真を撮りながら降りてきたのと、そんなことしか記憶にないのである。多分、朝、広島を発って、尾道には午前しかいなくて鞆の浦に回り、船で多度津に渡った。そして、善通寺に大学の同級生を訪ねたのを覚えているのである。

その時以来の尾道である。林芙美子は「続放浪記」のなかに、

 海が見えた。
 海が見える。 
 五年振りに見る、旅の古里の海!
 ・・・私は涙があふれた。

と詠っている。私の30年振りの尾道は、久しぶりという感慨もさることながら「背が低い」という印象で迎えてくれた。背が低いのは、向かいの島の山と造船所のクレーンのほかに駅前の風景も、である。前回来たときには、向島(むかいしま)の山、クレーンともにもっと背が高かったと記憶がよみがえるのである。古里で子どもの頃に遊んだ表通りがとても広かったのに、大人になって再訪して見るそれがえらく狭いのと似ているのかも知れない。

    
  
尾道水道、クレーン、丘、新尾道大橋      尾道駅前

それ以上に、駅前の風景が、そこを走る国道の幅を含め、えらく広くなっているように思えるのである。当時は、もっと建て込んでいて狭苦しかったのではなかろうか。

尾道水道も相変わらず目の前に横に寝ているし、造船所も渡船も街並みも、小綺麗になってはいるけれど、紛れもなくあの時の尾道と同じである。振り返って駅の裏を見ると急な傾斜で山が迫り、東の方にはロープウェイが上がり下がりするところもあの時の尾道と同じである。今回、ふたり連れなのが前回と大きく違う。

尾道駅に降り立った日は、すでに夕刻、その日は駅周辺をきょろきょろしただけで、翌日は因島に行ってやはり夕刻に帰ってきた。その行程には林芙美子がたどったであろう路も含まれているのであるが、それは後の話にして、その晩は、第3日の尾道紀行に備えてゆっくりと休むことにした。そして翌朝起きてみると、予報通りの良い天気であった。

先ずは、定番通りに駅前からバスに乗り、みっつ先の停留所で降りて山陽本線の線路を潜りロープウェイに乗る。退職大学教授といった風情の背の高い紳士と小柄な奥さんなどと乗り合わす。あっという間に頂上に着くと、先ずは高みに登って辺りを見回す。天気が良すぎてやや霞んでしまい余り遠くは見えない。島々の峰が、正面だけでなく右にも左にも重なって見えるのだが、目の前の尾道水道以外に海は見えないので、どれが何島の峰かはほとんど分からない。それまで見極めるためには、大凧かヘリコプターに乗るかしなければ叶わない。それよりも眼下の街並みが面白く見える。街並みは、少し下がったところにある千光寺から見るともっと面白い。

            

何が面白いかといえば、変化に富んでいて、その冨みかたがユニークである。

まず、尾道水道を挟んで造船所が見えその先に山が控えて目地を限る。東を見れば、尾道大橋が水道を跨ぎその先の海から目を遮る。尾道大橋というのは実は違っていて、正確には「新尾道大橋」なのだ。つまり、「尾道大橋」は昔から架かっている橋をいうのであって、しまなみ海道の橋は、そのこちら側に並んで走っていて「新」を付けて呼んでいる。千光寺山あたりから見て手前に見えるのは、しまなみ海道にかかる新尾道大橋なのである。

しまなみ海道は、尾道を起点に、向島、因島、生口島(いくちじま)、大三島、伯方島(はかたじま)、大島、馬島と島を渡って今治にいたる59.4kmの有料高速道である。ここからは、向島を走る一部もうかがえ、その先、おおむね右前方、山影に隠れ伸びていっているのである。

             山陽本線がカーブを・・・

目を下にやれば、山陽本線の電車の走るところを眺めることが出来て、その北側にはお寺の屋根や墓地があちらこちらに見える。観光ルートには「古寺めぐりコース」なんてのがあり、25寺がパンフレットのリストに載っている。展望台によっては、ここから15のお寺が見えるが、数えられますか、などと遊ばせているところもある。

            

そんな風にあちらこちらを眺めているとあっという間に時間が過ぎてしまうので、好い加減で止めにして、歩き出さなくてはならない。

ロープウェイの山頂駅の脇から「文学のこみち」なるものが始まり、眼下にある千光寺に掛けて、うっかりすると見落とすほどにつぎつぎと文学碑がつづく。最初は徳富蘇峰で、子規、十返舎一九などとつづく。中程に、もちろん志賀直哉、林芙美子もある。最後は多分、本堂より下にある芭蕉碑なのではなかろうか、と現地では思ったのだが、広島県制作のホームページ「ひろしま文化大百科」によると、最後は頼山陽なのだそうだ。やはり見落とした。「こみち」の最終部分は、千光寺の境内と渾然一体となっていて、寺の建物や大きな岩などに目を奪われているうちに、最後を見落としがちなのだ。それに、周辺に「こみち」以外の文学碑もたくさんある。どうやら、芭蕉は、「以外」に属するらしい。

朱塗りの本堂は、竜宮造りという建築様式なのだそうだが、そこに立つと、ロープウェイで一緒だった老教授ご夫妻がお参りを済ませお守りか何かを購っておられる。我々は、お賽銭を上げて参拝をすますとさらに下り、「おのみち文学の館」に向かった。ずっと続く下りの道である。海と山を背景にして、家々の屋根や窓、塀や石垣が道を挟んで不規則な調和をみせてそこにある。少し膝が笑いはじめる。

            

「中村憲吉終焉の家」に間もなく着く。そこで一服しようと、標識個所から足を運んでもなかなか家は見えてこずに、歌碑がいくつも続く。達筆の歌を読むのではなく眺めつつ歩を進めると、やがて質素な和風の平屋が見えてくる。二間に縁側が着いた程度。記念館なのであって生活の臭いがしなくとも良いのかも知れない。

三重の塔を眺めながら石段を下ってゆくと、間もなく青色の目立つ看板が「文学の館」へ誘ってくれる。少し石段を登ってたどり着いた館は、落ち着いた風情の和風建築で好もしい印象を与えてくれた。内容も、結構充実しており、特に林芙美子の展示には興味深いものがたくさんあって、じっくり見るに値すると思えた。が、この手の資料館ではいつもそうなのだが、今度じっくり見に来ようと言い聞かせては上滑りに瞥見して終わるのである。

まずは、休憩をかねて、ビデオにて尾道を中心に芙美子の人と業績を見せてもらった。中央大学の先生が監修したもので、分かりやすくまとめられていた。尾道で住んでいたいくつかの家、通った小学校や女学校、そこの先生たち、それに小学生の頃からの知り合いであり、女学校時代からは恋人であり、文学へのエネルギーを与えても呉れた岡野軍一とのエピソードなど、20分くらいであろうか、すっかり元気を回復させてくれた。

芙美子が尾道に住んだのは、大正5年、土堂小学校の5年に2歳遅れで編入されてから、大正12年に高等女学校を卒業するまで、足かけ7年間である。

            
      復元された芙美子の書斎から見える向島、一番奥が高見山

芙美子の書斎を再現した部屋は、向島がよく見えるところにあり、こんな所に本当に書斎を置いたら景色に目が行って小説など書けないのではないか、と一瞬、思ってしまうほどである。帰宅してから調べると、この書斎は、後に住んで執筆に励んだ東京下落合の家の書斎を再現したものだそうである。それを教えてくれた新潮日本文学アルバム「林芙美子」に掲載された書斎の写真とは、机の向き、人形や本棚、額縁の懸け場所などがだいぶ異なっている。しかし、それら調度品の形や部屋の雰囲気は類似しているので、それはそれで良かろうと思う。

猫の絵を看板にした「どらねこ」という民家風レストランなどを横目に石段の道を行くと、青色の道標に導かれて紆余曲折、「志賀直哉旧居」に着く。

「暗夜行路」には、坂道の途中、三軒長屋の一番東端の二間に台所付きの家を借りる、と書いてあるが、この旧居も作中の棟割り長屋とそっくりである。旧居の一番西の家に入り口があって、家中が土間になり奥に事務室がある。事務室の前は2軒目につながっていて、そこの座敷には瓢箪が置いてあり、そこに座って作品朗読のテープなどを聴くことも出来る。そこに座っていた夫婦連れと挨拶がてらひとことふたこと瓢箪のことを話す。この瓢箪は、「清兵衛と瓢箪」が尾道で執筆されたことにちなんでいるようである。

             
                  
志賀直哉の住んだ家

尾道には尾道大学というのがあって、そこの寺杣雅人先生という方が、志賀直哉と尾道の関係を研究されておられる。その先生によると、「この瓢箪こそ直哉自身」なのだという。お説は、ひとくちには言い表せないほど豊富な内容を持つのだが、あえてひとくちで言ってしまえば、「暗夜行路」に代表される尾道ゆかりの直哉の作品は、磨き抜かれた瓢箪のように推敲に推敲を重ねて生まれたもので、その象徴がやはり尾道で書かれた「清兵衛と瓢箪」である、ということのようなのである。

瓢箪の間のその奥に、直哉の家が再現されている。我々観光客は、北側の勝手場の土間に先ず入ることになり、へっついなどが眼に入る。私は、まてよ、と思う。ものの本には、直哉はここでガスを焚き、ガスの使用量が街で1,2を争うほどだった、と確か書かれていた。ま、いいか、と右に視線を回すと、そこから3畳と6畳の間を通して濡れ縁の障子をうかがうこととなる。障子の前、6畳間に座り机があって、その上にランプと文箱が置かれている。さらにその右にトランクが見える。開かれた障子の間からは、立木の陰に向島が見える。

直哉がここに滞在したのは、明治が大正に変わる年の10月から翌年にかけてである。ここから見える風景の大筋は、今でも「暗夜行路」に詳しく描かれているとおりである。風景というものは、意外に大きいものであって、数百mの幅しかない尾道水道といえども、新尾道大橋ほどの建造物でさえ少しのアクセントを加える程度でしかなく、視野に入る範囲の中では、人の力なんぞでそう簡単には変わりえないもののごとくである。

            

ただ、音の風景は、直哉の時代とまったく違ってしまっている。暗夜行路で直哉が描いたカーン、カーンという向島の造船所からの音など、今やこちら側まで聞こえるはずもなく、聞こえてくるのは、手前の市街地が発する自動車のエンジン音など雑多な音源からのザワザワとした騒音のみである。私は、その違いを少し埋めるような状況がないかと、ホテルで早朝、目覚めたときに耳を澄ませてみた。するとやはり雑多な音が微かに聞こえる中にやがてバイクの蒸かし音がけたたましく聞こえる、という結果に終わって、寝返りを打って寝直したのであった。

志賀さんの家を出てさらに階段を下がってゆく途中、幾人もの中年婦人のグループや子ども連れの夫婦などとすれ違う。元気の良い若い人たちは、歩いて上るが良いが、年寄りは上りは機械に助けてもらって自力では下るのが良いと思う。そんなことを考え考え歩くうちに、山陽本線の線路を潜って国道に戻ってきた。

早昼時間である。いざ、尾道ラーメンとばかりに、前日に駅の観光案内所で教えてもらった有名店に足を運んだ。中国銀行の脇にあるその店には、何と、3,40人の列が出来ている。こりゃ、だめじゃ、とばかりに首を巡らすといかにもチェーン店らしい尾道ラーメンの店が眼に入った。そこでいいや、と暖簾を潜る。眼に入ったのは、ロープウェイで一緒で千光寺の本堂でもお会いした大学教授のご夫妻。そちらさんも覚えておられてふたことみこと声を交わす。先に食べ終わった教授夫妻と入れ違いに入ってきた客が、何と、志賀直哉旧居で声を交わしたご夫妻。みんな、長蛇の列に恐れをなして流れてきた組。やがて出てきたラーメンは、魚味の細麺で、空いたお腹を心地よく満たしてくれた。

            

駅方向にしばらく歩いてアーケードの商店街を通り抜けたところに、有名な芙美子の座り像がある。その少し手前に「芙美子」という名の喫茶店がある。そこに入ると、中では、ピンク系の柄物和服に割烹前掛けのマダムが仕切っている。内装には、芙美子の原稿やら著作などをあしらって雰囲気をこしらえている。「放浪記」「巴里日記」など芙美子作品の名を付けたコーヒーを出している。ラーメンなども出していて、若いカップルがそれを注文している。店の奥には、中庭を隔てて芙美子が住んだ家を移築し復元していて、客は自由に見ることができる。私たちも、お茶を出していただく間に見せていただいた。なかなかよく再現されているが、調度品は整備がやや足りない感じ。でも、当時の様子、雰囲気を偲ぶには十分のできばえである。

我々がお茶を終えた頃、颯爽と店に入ってきてトイレに入った青年がいて、何のためらいもないその仕草に、お店の関係者だろうと思った。ところが、勘定をしている我々の脇を無言ですりぬけて出ていこうとする。マダムがすかさず、「トイレだけは困るんですよ」と遮る。結局、平に謝って出ていったが、こういうマナーの「客」がけっこういるのだそうである。マダムの話によると、お茶をするでもなく芙美子の家にズケズケ入ってゆく観光客や、時には団体さんまであってビックリする、とのことであった。

その店を出て左手に間もなく、「うず潮小路」という標識がある。そういえば、「うず潮」という朝の連続テレビドラマがあって芙美子を描いていた。それにちなんだ命名だそうだが、そこを入ると芙美子家族が住んだという家のひとつの跡に行き着く。標識のみである。芙美子の家族は、尾道に住んだあしかけ七年間に何軒もの家を移り住んでいるのである。

                

我々は、帰りの新幹線「のぞみ」に乗るため、この後、山陽本線の列車に乗りこんで福山に向かった。列車の窓から去ってゆく川のような海とその向こうに横たわる島を眺めながら、尾道と直哉、芙美子のことを思っているうちに、芙美子がしばしば訪ねた因島のことを思い出していた。因島では、前日に除虫菊の島を歩く催しで半日強を過ごし、その後半、芙美子の恋人、岡野軍一の古里、土生(はぶ)の町を訪ねていたのであった。

芙美子は小さな時から文学的才能が目立ったようで、小学校、女学校時代以来、後々まで、その才能を伸ばすような指導を何人もの教師から受けている。才能を伸ばすに関して、岡野も預かるところが小さくなかったようで、小学校時代にはじめて会ってから、特に女学校時代、岡野に文学の面白さなどを教えてもらったりして次第に思いを寄せるようになった。そして何度も、尾道の町から岡野の家のある因島田熊に通ったらしい。

私たちは、因島重井町訪問が終わってから、地続きのところに船を使って田熊の最寄りの港、土生港に向かった。その航路は、因島とその西に浮かぶ佐木(さぎ)島、生口島との間の狭い瀬戸を行く路である。両側に小さな街並みや山腹が代る代る迫り、時に小島のすぐ横を通る路である。小島の潮だまりには白砂の浜が眼に入る。この地方の島、山は多くが花崗岩でできている。そこから供給される砂はちょっと黄色がかった感じの白砂が多い。

              
             
しまなみ海道生口橋を潜ると間もなく田熊町

芙美子も、ここを行きながら移る景色の美しさ、珍しさを楽しんでは岡野を思ったのではなかろうか。この時期に来ていれば、除虫菊に真っ白に覆われた因島の風景に歓声を上げたに違いない。土生港に船が着く手前に田熊地区が拡がる。その佇まいは、今は造船など船舶関係らしい工場が建ち並ぶ街であるが、当時は、どんなだったのだろうか。土生では、当時、日立造船の前身の大阪造船が操業しており、後に岡野もそこに就職している。岡野家はミカン山をも持つ資産家だったらしい。

岡野は明治大学へ進学してこの地を去って行った。岡野との結婚を願った芙美子は、岡野を追って尾道を去り東京に向かう。息子からその話を聞いた岡野家は、家格の違いを理由に猛反対した。岡野も、それを受け入れて因島に帰り造船所に就職してしまった。そして、「放浪記」の世界が始まるのである。

福山までの20分ほどの時間、そんなことを反芻しながら、私たちは芙美子の作品の世界が、そして直哉の作品の世界も、尾道部分を中心に、ぐっと近づいたような気がしていた。そして、帰ったら、「放浪記」や「暗夜行路」など、尾道を描いた個所を読み直してみようと考えていた。
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