パリへ〜洋画家たち百年の夢

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秋のある日、熱海のホテルで目が覚めたら雨模様。そこで、かねてより行ってみたかったMOA美術館に行くことに決めた。昨日、熱海駅に着いたとき、大きなポスターが、明日までの会期で「パリへ〜洋画家たち百年の夢」という企画展をやっている、と告げていたのを見ていたからで。

この展覧会は、わが国美術を背負って立ってきた東京美術学校=東京藝術大学の卒業生と教員らの主要作品を観ることにより、それらが100年の歴史の中でどのように位置づけられて変遷してきたかを振り返ってみることがねらいとなっているようであった。以下に、きわめて大づかみではあるが内容紹介と感想を交々記しておこうと思う。

100点余りの作品が展示されていたが、私は、主として明治から大正、昭和初期の作品が辿った後に興味をそそられた。まず最初に、文明開化の最先端で、黒田清輝らがラファエル・コランという日本の美術に関心を持っていた師のもとで洋画を学び、それを日本に持ち込んだ有り様を跡づけていた。わが国洋画壇の先兵としてパリに渡った黒田が描いたいくつもの裸婦像は、光を大切にし明るい絵を描いたコランなどから教えられた洋画の技法を日本に持ち込み、わが国にかなりなショックを与えた。2度目の留学で制作された「裸体婦人像」が第6回白馬会に展示されるにあたって、下半身に覆いを掛けられたエピソードは、当時の日本社会の戸惑いを現している。黒田の画業の到達点の中から、本展には「婦人像(厨房)」が出展されていた。彼がパリ郊外に下宿していた農家の娘、マリア・ビヨーの瞳を、冬のやや冷たい光の中で印象的に描いている。これがわが国近代洋画のあるべき姿である、と主張しているかに見える。

 黒田清輝「婦人像(厨房)」(1892)
 東京展図録表紙

その後も、パリで学んだエリート画学生によって吸収された洋画の手法は、わが国独自のものを加味しつつ定着されてゆくこととなった。これは、明治、大正を中心に昭和初期に至る流れであった。浅井忠は、日本画にも精通していて、本展にも、蝦蟇を頭に乗せたユーモラスな画などが掲げられていたが、同時に、日本らしい風土をうまく洋画手法で描いた田舎の風景を造形化した。よく知られた「収穫」が出展されていた。和田英作の「渡頭の夕暮れ」は、わが国の典型的農民家族が労働を終えて家路につく風情を和田流に洋画としてうまくまとめ上げている。藤島武二の「女の横顔」は、西洋の肖像画によく見られる横顔を描いているが、これは正真正銘の日本の婦人像として完成されている。安井曾太郎の「婦人像」は、いっそう日本らしい雰囲気を醸す絵になっている。藤島武二は、風景画においても洋画の技法を日本の清冽な風土を描く手法として確立していったようである(「室戸遠望」)。

浅井忠「収穫」(1890) ( http://db.am.geidai.ac.jp/object.cgi?id=3500 )

別の角度から見ると、黒田は「女の画家」、浅井や和田は「土の画家」と見ることも出来そうである。

その後、両大戦間には、佐伯祐三、藤田嗣二、林武などの西洋から学びつつも独自のものを追求する道、フォービズム(里見勝蔵)からキュービズム(山口長男)、シュールレアリズム(岡本太郎)など多様な変化を示すことになる。これらのなかから、私は、山口長男の「竝」という抽象画に作者の気持ちの一端を垣間見た気がした。すなわち、画面の圧倒的部分を占める赤一色の面にペインティング・ナイフの痕が周辺から中央部分に向けて透けて見えていて、単に塗りたくったなどとは違う丁寧な手作業を見ることが出来るのである。

戦後は、絵画ならパリ、という感覚は薄れ、むしろニューヨーク他の西洋をも含めいろいろな流れの中に、日本の洋画を位置づけて発展させようとする試みが見られるようになった。西洋から日本に留学するケースも出てくるようになった。また、インスタレーションといわれるような空間を駆使した作品も多く手がけられるようになった。この流れは、現在にいたってますます強くなっているようである。

このように、東京藝術大学の100余年にわたる歴史は、わが国洋画の全ての流れではないもののもっとも太い流れを形成してきたことは確かである。この展覧会は、それを眼の前に示してくれたのであるが、しかし、それは、本来洋画に限らず、日本画、版画などをも含めた絵画全体の中で考えることも必要で、そうすると、文明開化期以降の美術の流れに対して、総体としてもう少し異なる評価ができるように思うのである。すなわち、ここに示された結果は、やはり脱亜入欧の感が否めないのであって、もしこれら「パリへ」の流れとともに「日本を」という意識がいっそう大切にされたなら、どのような美術が今展開されているだろうか、と思うのである。そしてそれは、音楽についても同様なことが言えそうである。



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