対談「戦争と人間」

「世界」(4月号、「世代を超えて語り継ぎたい戦争文学」)要約
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この対談はまえにも、そのまえにも書いたとおり、「世代を超えて語り継ぎたい戦争文学」という題名がついている。初回、たまたま「人間の条件」が主題になっていたので、「対談『人間の条件』」として紹介させていただいた。そのままのタイトルとして(続々)としようと思ったが、今回の内容は、おもに「戦争と人間」をめぐるものである。そこで、今回は標記のように変えてみた。そのようにご了解くださり、お目通し願えれば幸甚である。

「人間を丸ごと描く」
佐高:「戦争と人間」の伍代由介のモデルは石坂泰三ですか。
澤地:財閥はイメージとして日産コンツェルン。石坂さんって、全人生を凝縮させたような迫力、大きさ、自信。そういう顔を持っている。
佐高:石坂は詩歌がわかる。訪欧してシラーの詩を原語で暗唱する。自民党総裁選で佐藤栄作四選間違いなしの時、三木武夫を応援した。自由を大事にし、官僚嫌い。
澤地:伍代由介は、あこぎで汚いこともするが、民衆の涙も分かっている。五味川は、資本家は悪玉、といった観念的な人間は描きたくなく、人間を丸ごと描きたかった。
佐高:苦悩を持っていない人間ではない。勿論、梶の苦悩はより深い。
澤地:「戦争と人間」は、昭和の幕開きから極東国際軍事裁判まで、戦争責任がどう決着したか、まで書く構想だった。
佐高:日本産業コンツェルン・・・すさまじい名前です・・・が先行し三井、三菱が後から満洲へ行く。日産コンツェルンの鮎川義介は、自分が伍代のモデルか、と思っていたらしい。訊かれて、五味川さんは「違います」とは言わなかったと。
澤地:それら進出は、関東軍との話し合いによる進出ですね。
佐高:映画の滝沢修が見事。五味川も「何十行書いてもひとりの実在の人物には及ばない」と言っていた。

「石原莞爾の腰砕け」
佐高:「戦争と人間」でいちばん魅力的な人物像は誰ですか?
澤地:柘植進太郎という軍人。映画では高橋英樹が演じました。そういう軍人が実際にいた。盧溝橋で衝突があったとき、すぐ増援提案が陸軍省からあった。作戦部長の石原は動揺する。そこへ帯刀威儀を正して反対を具申しに行った軍人がいる。堀場一雄、柘植のモデルです。彼はその後、前線に飛ばされ最後は朝鮮かどこかにいたと思います。彼の「支那事変戦争指導史」は出色で石原も顔なしです。
佐高:あのとき、戦争を止めたというのが石原莞爾評価のひとつの力点になっています。
澤地:石原は、止めていませんよ。満州事変発起の当事者として自縄自縛です。増派案は閣議決定され戦火は拡大します。奉天総領事林久次郎は、命がけで関東軍の動きを逐一本省に打電しています。しかし、外相幣原喜重郎は、朝食時に新聞で知った、といいます。外務省が電報を握りつぶしたか、幣原が知らないふりをしたか、どちらかです。日中戦争の始まりの時にも、広田外相のまわりで同様のことが行われています。軍隊を動かそうという意志に反対するのがどんなに困難であったか。
佐高:石原も殺される気でやっていたら、あの戦争は随分変わっていたでしょう。
澤地:綏遠事件(1936年)というのがあって、徳王という野心家を関東軍が応援して全蒙古をとろうとした。関東軍は、反日意識の強い精鋭の下、大苦戦、敗退する。西安事件の引き金になる。この時、石原は東京から駆けつける。武藤章は「石原さんが満州事変のときやられたものを模範としてやっている」と言う。石原は返す言葉がない。
 みんな、石原莞爾は立派だと言うけれど、何カ所かで背骨がグシャッと曲がるようなことがある。

「阿片と五族協和」
澤地:「一五年戦争」の始まりは満州事変です。井出孫六さんが講演されたとき、聴衆から「満州事変のおしまいはどこですか」と訊かれて絶句したそうです。形式的には塘沽停戦協定(1933年5月)です。停戦協定をつくるにあたっては抜け道がつくられていて、山海関から西に中立地帯を作る。そこに冀東防共自治政府という傀儡政府をつくって、ここが阿片密売の中心になる。そこで日本は止まらない。中国側は妥協に次ぐ妥協。やっと西安事件で国共合作になる。そして昭和12年7月7日が来る。
佐高:「五族協和の理念は正しい」と言う人がいるが、その裏には阿片がペタッとくっついていた。
澤地:五味川さんも阿片を重視された。阿片の話は、闇のルートで現代にまでつながっていると思います。
佐高:勝田龍夫「重臣たちの昭和史」を書くのを支えた多田井喜生は、お金の動きを追ってゆくので五族協和という言葉にだまされない。彼も阿片のことを言ってました。

「『戦争の昭和』の入門書」
佐高:山本学が演じた白永祥が小さい子どもに旅順と大連の話をしますね。
澤地:ええ。子どもの梅谷邦に。
佐高:日本が取ってしまったと、童話風に話す。ああいう話もうまく配置されていますね。
澤地:私も、中国人教師にかわいがられたことがあって、そんな話を五味川さんに話しているんです。
佐高:梅谷邦は澤地さんかな。で、「戦争と人間」は、見事な現代史ですね。
澤地:「長編としての昭和を書くというのは戦争を書くことだ」と五味川さんは言っています。映画はうまくノモンハン事件で終わっている。あそこでしか映画は終われなかったと思う。映画は面白いですから、特に若い人がこれで戦争の昭和に入門してほしい。

「勝てないから戦争に反対なのか」
澤地:東京は不景気で父が働いても収入が得られない。それで母の決断で私の家族は満州へ行った(昭和十年)。五味川さんとよく話したのは、では満洲をとらなかったら日本人は飢えたのか、ということ。五味川さんは、みすずの「現代史資料」で英語を訳した一枚のビラを見て「この視点がなかった」と言った。それは、侵略しなくても分配をちゃんとやっていけば、この島国で十分食べていける、というもの。この視点が今もない、と。これ、石垣綾子さんがアメリカにいて書いた宣伝ビラなんです。
 もうひとつ、五味川さんが日本の左翼運動に欠けていたと言っていたのは、一田アキという女流詩人(中野重治の妹の中野鈴子)の「味噌汁」という詩の世界、これは人々が暮らしから温かい味噌汁を奪われていることを書いたものです。五味川さんには、なぜこんな戦争やってはいけないという方向へ人々を向けられなかったのか、という挫折の気持があった。自分にきびしく、とくに責任ある政治家、軍人などを許さない、きびしい人でした。戦後、勝てるはずのない戦争をやったと言って批判するけれど、では数字の上で勝てる戦争だったらやってもよかったのか。そういう視点が抜けてると批判してました。
佐高:私のおふくろは「娘身売りの相談にのります」という看板が出た近くですからよく分かります。苦しいのは、予算の半分ぐらいを戦費にとられているからですね。
澤地:最後は85%以上になります。
佐高:石橋湛山が、大日本主義は算盤に合わない、戦争やって消耗するより、貿易した方が算盤に合う、と言った。この石橋湛山的考え方が、伍代由介だと思うんです。
澤地:ある意味の合理主義。
佐高:それが、変なロマン主義、空想的感情主義みたいなものに潰されていく。それが数字無視にもつながっていく。
澤地:精神でいけ、大和魂でいけ、と。
佐高:経済のある種の合理主義で利益を考えられる人と、「わがなきあとに洪水はきたれ」で目先の利益しか追わない人と、経営者の中にも2種類ある。
澤地:いまは、戦争は引き合わなくなっている。アメリカだって半分くらいは赤字国債。日本もひどい赤字を抱えている。それでも政財界あげて戦争のできる国へ、というのは、まだ軍事産業にうまみがあると見果てぬ夢を追っているのでしょう。

「国境を越えていた人」
澤地:五味川さんは、60年代初め、独立が盛んだったアフリカに行った。いずれはアフリカの世紀が来るだろう、と。世界の中での日本の位置、という視点があった。これは、彼が大陸生まれだ、ということと無関係ではない。それから外語大で英語をやった。学生のとき、通訳もやった。さらに、鞍山で就職したとき、研修では果ての果てまで満洲を歩いている。
 五味川さんは、舞台を満洲において「昭和」という時代を書こうとした、これは当たっていると思う。日本人は戦争を振り返るときに満州事変をあまり言わない。実は中国には勝っていなかったということも言わない。日露戦争でかろうじて勝ったときに、日本は大国であると錯覚し、”支那おそるるに足らず”と野心を持ったところから始まる。満洲は自然条件がすさまじい。あの零下40℃のなかで抵抗は決してゼロにならない。そういうことが(1945年)8月15日まで続く。その歴史を多くの日本人は見ようとしない。重慶のサッカーで中国側が失礼だったというけれど、彼らのおじいさん、おばあさんに殺された人たちが必ずいる。中国人は日本人よりはるかに鍛えられてすごい歴史を持っていると五味川さんは話された。こういう人たちの中で生き残った人が新中国建設をやった。

「孤独な死」
澤地:五味川さんが絵を描いたり、歌を歌ったところを知らない。
佐高:お酒は?
澤地:全然飲めない。
 五味川さんは、こんな愚かしい時代があった、また、同じことが繰り返されるのに何でみんな何も言わないのか、自分にはもう発言の機会はこない、と不本意な気持で亡くなったと思う。非常に孤独で、怒っていたと思います。
佐高:そういう思いで、若い人に読んでほしいと、遺書のように書いたのが「戦争と人間」ですね。

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